夢経さんの家

どんと祭


どんと祭
 仙台に赴任してから三年がたつ。今春には職を離れて関東に戻る予定なので、仙台最後の冬を送っている。そんな中で、神棚の(お札)を返しにゆくことになった。お札は昨年、新春の安全祈願をしたもので、返納先は大崎八幡宮である。今日は、(どんと祭)が催されるのだが、私にとっては、三年目にして始めて見る祭りだ。自転車で行くことにした。八幡宮の一之鳥居まで三・五キロ、そこから北参道鳥居の駐車場まで、勾配二〇度の坂道を四五〇メートル走る。
 大町を出て晩翠通りを北に向かった。道路は普段と変わりない風景が続いている。突き当りになる国道四十八号線が近づいたころ、前方から鈴の音が聞こえてきた。八幡宮に向かう裸参りの行列が、鈴(行商人が使うハンドベルみたいなもの)を鳴らしているのだった。参拝の行列は、団体名の入った高張提灯を先頭に、半身裸の男衆が続いている。白足袋に草鞋履き、体に白い晒を巻いた出で立ちである。銘々が江戸張提灯と鈴を手にして歩いていた。女性が法被を着て参加している集団もあった。よく見ると、口に紙のようなものを咥えている。(含み紙)といい、私語を慎む為にあるらしい。民間会社・電力会社・商店・大学、さまざまの列が、それぞれの規模で、国道を八幡宮に向かって歩いて行く。
 歩道は一般の参拝者も歩いているので、大混雑になっている。自転車が通れる状態ではなかった。行列を横目に車道を走り抜けた。一之鳥居を通り過ぎ、西側の坂道を一気に登った。参拝者用の駐車場に入り、隅のほうに自転車を止めた。他に自転車は二台しかなかった。(今日は自転車で来るもんじゃないな)そう思いながら二つの鍵をかけた。境内に向かって歩いていると膝がガクガクしてきた。還暦の脚力は相当に落ちていたのだ。
 北参道を真直ぐ南に行くと、社務所の先に広場がある。松焚祭斎場と称されている。そこには、四隅に竹を立てた結界が張られていた。その真ん中には二本の高い竹竿が立っていて、これから焚き上げるお札などが、三メートル位の高さに積まれていた。お札や正月飾りに混じって、この地方特有の青色をした(松川だるま)も、たくさん置かれている。きっと昨年、たくさんの願い事を頼まれていたのだろう。私も、お札の入った紙袋を、竹竿めがけて投げ入れた。袋は大きな弧を描いて、山の中段に落ちた。
 八幡宮の松焚祭(まつたきまつり)は、三百年続いている正月送りの行事で、正月飾りや古神札等を焼納する。一般的に火の勢いから、(ドンド焼き)とも呼ばれている。私の故郷である宇都宮二荒山神社では、(どんどん焼き)と呼んでいた。大崎八幡宮の松焚祭は毎年一月十四日に行われ、日没の頃に(忌火)と呼ばれる火を点けて焚きあげる。
 四時開始の予定になっていた神事は、二十分ほど遅れて始まった。神主の祝詞奏上・お祓い・玉串奉奠の後、数か所から松明で点火された。途端にあたりはパチパチと音を出して、くすんだ煙に包まれる。数人先が見えない。しかし、火のまわりは早く、視界が戻ると同時に体が熱くなった。
「あの松明は、真っ黒い煙がいっぱい出ているだろう。きっと石油をかけてんだぞ」
そんな解説をしている参拝者もいる。
 松焚祭の火は、正月の間に各家庭に訪れていた神々を送る(御神火)で、火にあたると心身が清められ、一年間無病息災・家内安全の加護を得るという。
 この火を目指して参拝するのが(裸参り)である。「厳寒時に仕込みに入る酒杜氏が、醸造安全・吟醸祈願のために参拝したのが始まりとされ、江戸時代中期には既に定着していた」と、八幡宮の説明には記されている。。毎年数千人の参拝者があり、杜の都・仙台の風物詩となっている。
 参拝のために社殿に向かった。金と黒の社殿は国宝に指定されている。日光東照宮の奥に建つ、徳川家光公の廟(大猷院)と配色が似ている。私が子供の頃は、こういった祭りには子供たちが走り回っていたものだが、あまり子供を見かけなかった。そのせいか、参道の露天商は、あまり流行っていないようだった。
 大崎八幡宮の歴史は、遠く平安の昔までさかのぼる。東夷征伐の坂上田村麻呂から始まり、幾多の遍歴の末、伊達政宗公が、仙台城の乾(北西)の方角に祀った。乾の方角は、八卦によると陽の極まる場所であり、都市・大通り・豪華な建築という意味を持つ。、造営には、当代随一の工匠があたり、豪壮華麗な桃山建築の特色を見せている。明治以降は大崎八幡神社と呼んでいたが、御遷座四百年を機に、平成九年六月、社名を大崎八幡宮に戻した。
 八幡様は、武家の守護神・国家鎮護の神・安産の神として尊崇されてきた。武門・戦の守護神なので、東北楽天イーグルスや、ベガルタ仙台が毎年必勝祈願をしている。仙台市民や近郷の崇敬者にとっては、心のよりどころになっている。人生や仕事を勝負事と考え、厄祓い・商売繁盛・受験合格などの神としてお参りが絶えない。
 今日の社殿は仕切られ、一般の参拝者は社殿に近づけなかった。社殿側は、裸参りの参拝者が団体ごとに呼び出されて、順々に参拝をしていた。その後、松焚祭の火を一周する流れになっている。私は、先に松焚祭に行ってから社殿に参拝したが、社殿の参拝が先だったのだろうか?
 駐車場に戻り、自転車で急な坂道を降りた。下りきった国道は、まだまだ沢山の一般参拝者と、裸参り衆がひしめいている。四十八号線を大学病院の方向に走った。病院を過ぎるとその先には、いつもの平凡な夕暮れの街が待っていた。退屈な風景が、ゆっくりと続いている。北四番町の交差点を過ぎて、錦町から花京院に抜けた。この辺の路地は狭い。高い建物はなく昔の街並みが残っている。西の空は冷たい群青色に塗られていたが、下のほうは、まだほんのりと赤紅色を残していた。少しずつだが、確実に日はのびている。