夢経さんの家

ほらほらこぼしたものは


ほらほらこぼしたものは
 「ほらほら!こぼしたものはきれいに拾って食べるんだよ」
祖母が私に注意をする。
 昭和三十年代。丸い形の飯台で、家族みんなが顔を会わせ、食事をしていた。円い形のちゃぶ台は、大勢で食事をするには都合の良い形だった。オカズは大皿大丼に盛り付けられ、中央に置かれたものを皆でつつきあう。
 小学生の私には、コロッケとカレーが御馳走だった。それに、時折できるお焦げご飯に、フリカケを掛けて食べるのも大好きだった。それじゃ、いつもは何を食べていたか?と、聞かれてもさっぱり思い出せない。日常の食事とは、そうしたものなのだろう。
 当時、食事を残すことは悪いことだった。煮物の好きな祖父は(煮しめ)と呼ぶ、野菜と魚を煮込だものが好物で、
「これは栄養満点、健康の薬。残さず食べるんだぞ」と、
何でも残さず食べていた。そのせいか、九十三才まで元気に生きた。
 私はオカズがなくなると、ご飯に味噌汁を掛けて残さず食べた。最近とんとこのての食事は少なくなったが、私は今も時々やらかす。娘たちも真似をしてサラサラとやりながら、
「こうすれば残さないんだよね」
と、喜んでいる。妻は困った顔をして眺めているのだが、幼い娘たちも年頃になれば嫌でもやめるだろうと、楽観的な私である。(残さず食べる)これは大切な事なのである。
 今も昔も子供たちが喜ぶ食卓に、カレーライスが君臨している。私が子供の頃は、ライスカレーと呼んでいて、まっ黄黄の色だった思いがする。
夕方になると、遊び疲れた子供たちの所に、何処からともなくカレーの臭いが漂ってくる。
「てっちゃんちカレーだ。いいなー。俺も明日作ってもらうべ」
それぞれに、家に帰っていく。
今のカレーは、ほとんど焦げ茶色をしている。時代とともに、色も変わったのだろうか。
 色といえば食卓を飾るトマトの色が、最近はどうも異様に赤すぎる。当時の夏。まだ涼しい早朝。近郷の農家から毎日のように、大きな竹篭を背負った小母さんが家にきた。つるつるナスにいぼいぼキュウリ、そして大きなトマトには青みがいっぱい残っていた。
 天秤皿に幾つかトマトを乗せて、錘の分銅を見せる。
「ホレ、二百匁」
そして必ず季節の野菜を幾つかサービスに置いていく。
 さっそくバケツに井戸水を汲み、朝食までトマトを冷やしておく。冷えたトマトに、サッと塩を振り掛け食べると、塩分と青臭い味が口いっぱいに広がった。当時のトマトには、今のトマトが忘れてしまった新鮮な土の香りがあった。ナスでもキュウリでも、無造作につかむものなら、棘が刺さるほど新鮮だった。
 小母さんの篭の中味は季節と伴に変り、食卓の彩りも同時に少しずつ変わっていく。芋類から白菜、やがてほうれん草の緑と根の赤い色が食卓を飾る頃には、すっかり冬を迎えていた。
 私の住んでいた栃木県北地方は山国で、あまり新鮮な魚介類がなかった。そのせいか、生魚が食卓を飾ることはほとんどなかった。それでも家族の皆は刺身が好きで、食卓に上れば喜んで食べていた。しかし、私は生臭くて箸をつけるのも嫌だった。
 食べ物の嗜好は年とともに変わるもので、あれほど見向きもしなかった刺身も、今は好物になっている。私の場合は酒を飲むようになって、好みが変わってきた。ご飯のオカズとしての食べ物と、酒の肴としての食べ物は、また違ったもののようだ。
 子供の頃から一貫して嫌いな食べ物も多い。数の子に筋子、そして極め付けは塩辛。これらのものは、両親兄弟とも大好物で当然我が家の食卓にもあった。好き嫌いとは個人差の大きいもので、毎日の食卓と必ず結びつくとは、限らないように思われる。塩辛の好きな人には申し訳ないが、私には、(胸焼けの猫が草を食べながら吐き出した、戻し物のようで気色の悪い食べ物)なのだ。
 最近は、ほとんどの家庭で長方形のテーブルを使い食事をしている。四人分の席があれば事足りる家族構成に、適しているからだろうか。
 食卓テーブル形状の変化と共に、食べ物の組み合わせも変わってきた。例えば、寒い冬の日に湯豆腐が出てきたとする。その脇にトマトが平気な顔で並んでいるのだ。こんな白と赤の組み合わせは、考えられなかったのだ。
 農業技術の進歩は目覚ましいものがあり、私たちに豊かさをもたらせてくれた。素晴らしい事ではあるが、食卓の季節感を薄めてしまったことも事実である。
 ピーピッピ。電気炊飯器が失敗なくご飯を炊き上げる。チーンチン。電子レンジが温かい料理を作り上げる。
 (あのころ食べた、美味しいお焦げご飯は何処へいってしまったのだろう‥‥)
 物思いに耽っている私の耳に、忙しそうに子供達に叫ぶ、妻の声が聞こえてきた。
「ほらほら!こぼしたものはきれいに拾って、ゴミ箱に捨ててきなさい」