夢経さんの家

磐越東線車窓から


磐越東線車窓から
 秋半ば、仙台から磐越東線を使い(いわき)まで出かけた。午前中のいわき行きは、郡山発五時三〇分と、八時ちょうどの二本しかない。八時の列車に乗ろうと、七時十二分発の(やまびこ)で仙台を出た。郡山での乗換え時間は八分になっている。

 新幹線は二〇分ほどで福島に着いた。この駅では山形方面から来る(つばさ号)を連結するために、五分間停車をする。
(なかなか発車しないな‥‥)
と思っていたら、車内放送がながれた。
「後から来る列車が遅れています。はやぶさの通過を待ちましてからの発車になります。忙しいところ、ご迷惑をおかけします」
(郡山での乗換え時間は大丈夫だろうか?)
そんなことを考えているうちに発車した。
「四分の遅れの出発になっています。忙しいところ、ご迷惑をおかけします」
再び放送がながれた。
(乗換え時間が四分しかない)
連絡階段近くに止まる車両まで移動した。
 列車は混んでいる。福島同様に郡山でもかなりの昇降客がいた。新幹線通勤もあたりまえの時代になってきたようだ。到着と同時に階段を駆け降り、在来線連絡口へ急いだ。乗換ホームは、新幹線から一番遠い東の端にある。八時ちょうど、発車ぎりぎりで列車に飛び込み、息を切らしながら座席に座った。と同時に、
「遅れている新幹線からの乗換えを、待ってからの発車になります。もうしばらくお待ちください」
放送が耳に入ると、いっぺんに疲れがでた。その後、乗換え客が数人まばらに乗り込んできた。五分ほどしてドアが閉まると、ディーゼルエンジンの音が次第に大きくなっていった。

 磐越東線は福島県郡山駅から、いわき駅を結ぶ鉄道で、(ゆうゆうあぶくまライン)の愛称がつけられている。路線距離八五・六キロの区間で、起終点を含むと一六の駅があり、線路はすべて単線で無電化である。駆動はディーゼルエンジンなので、速度は早い時でも、時速八十キロメートル位だろう。
 二〇〇九年のダイヤ改正までは、快速列車も走っていたらしいが、今は全列車が普通列車になっている。鉄道沿いに走る磐越高速道路には、便利で早い高速バスが運行している。そのせいか、長距離移動に列車はほとんど利用されていない。結果として、小野新町の先にある峠を越えて、いわきまで直通運転する列車は少ない。ほとんどの列車は、郡山・小野新町間と、いわき・小川郷間で運行されている。
 路線の歴史は古い。阿武隈山地を越えて、中通りの郡山と浜通りの平を結ぶ、平郡線として計画された。郡山側の平郡西線と、平側の平郡東線が、一九一四年から翌年にかけて開業した。その後一九一七年[大正六年」、両線が結ばれたとき磐越東線と改称した。

 乗車した郡山発八時の列車は、小野新町から到着した四両編成を、半分に切り離して折り返し運転になる。この時間帯の下り列車は通勤通学客で混んでいる。上りになる折り返し列車は二両編成だが、席は空いているし、トイレも付いているので、快適な旅行列車になる。
 磐越東線の小さな旅を記録してみた。

 郡山を出発すると間もなく逢瀬川を渡り、右に大きくカーブして東北本線と分かれる。電柱の見えなくなったレールを走りだした列車が、阿武隈川の鉄橋にかかると、鴨が数羽群れているのが見えた。冬鳥の季節を待つ車窓には、風にそよぐススキが輝いている。しばらく走り山間に入ると最初の停車駅に着く。
 舞木(もうぎ)駅にある数本の桜の木は、枝に残っている葉が少なくなって空が透けていた。列車をめがけて走ってきた高校生が、発車間際に車内に飛び込んできだ。駅は無人で改札がなく、いっぺんにホームまで入れる。急いでいる時は便利なようだ。郡山を出て初めてのトンネルを抜けて次の駅に着く。
 三春(みはる)駅近くを流れる八島川に並んだ桜は、まばらに紅葉していた。駅の付近には、城下町を偲ぶ風景はない。町の中心街は駅から離れているのだろう。ここでは待ち合わせのため、少し長い時間停車した。ホームの形は広い島式で、たくさんの客が郡山行きを待っていた。やがて着いた列車は、まだ通勤対応の三両編成で車内は混んでいた。乗客が乗り込み、誰もいなくなったホームは一陣の秋風が吹き抜け、静寂が訪れた。
 下り列車を見送った後、上り列車もゆっくり動き始めた。山間を抜けると水田にでた。田圃の脇には小川が数多く流れている。丸太を組み立てた馬が各所に作られ、刈り取った稲が干されていた。稲は上下二段に、きれいに並んでいる。馬に使った丸太を保管してあった小屋もあちこちに見える。この狭い山間で、数軒の稲作農家が生活しているようだ。
 要田(かなめだ)駅は左側に水田が広がり、右手は山になっている。構内の案内板をみると、この駅は三春駅で管轄していることが判る。走り出すと右手に校舎が見えてきた。昭和を感じさせる下駄箱型で、鉄筋コンクリート造りになっている。数多い教室の内、半分程度の教室にしか照明が灯っていない。暗い所は、生徒が減って空き室になっているのだろう。トンネルで山を抜けるとやがて大きな街が見えてくる。
 船引(ふねひき)駅は田村市になる。二〇〇五年に、四町一村が合併してできた新しい市である。トンネルを抜けると、別の文化圏になっていることがよくあるが、ここにも言えるようで、三春町とは別の世界があった。駅で待ち合わせた列車は、こちらと同じ二両編成で、もうほとんど客が乗っていない。
「これより先はワンマン運転となります」
車内放送がながれた。
 磐城常葉(いわきときわ)駅は最初のワンマン駅になる。降客は運転手に切符や料金を渡し、一両目の前の扉から降りる。乗客は一両目の後ろの扉から、整理券を取って乗り込む。この駅での乗車客はいなかった。たまたまなのだろうか、窓から見える店や会社には、(柳沼姓)が多く目立った。
 大越(おおごえ)駅には係員が常駐していた。JR社員以外の人が駅務を代行する、業務委託駅が、路線には数駅あるとのことだ。気が付くと今まで右窓から射していた光が、左窓から入っていた。列車は南を向いて走っているようだ。地図を見ると、郡山を出た列車は先ず北東に走り、要田を過ぎたあたりから南東に進路を変え、いわきに向かう。郡山の真東は福島第一原発付近になり、そこから三五キロほど南に、いわき駅がある。
 菅谷(すがや)駅に着くと、白い駅名板の上に赤紫色の朝顔が三つ、ひっそりと揺れていた。その奥には、乳白色した岩肌の山が見える。石灰岩を掘っているようだ。構内に(入水鍾乳洞)の案内がでている。この辺一帯は、石灰石の産地になっているのだろう。
 神又(かんまた)駅には、(あぶくま鍾乳洞)と(星の村天文台)の、大きな案内板があった。鍾乳洞は駅から三・五キロの距離と書かれている。初老の男が二人、リュックを背負って降りていったが、鍾乳洞にでも行くのだろうか?
 私は先の大震災の翌年、あぶくま洞に入ったことがある。その時、案内係にたずねた。
「地震でどこか崩れましたか?」
「どこも崩れていませんよ」
「地震の時、中にいたら危なかったでしょう?」
「いや、洞内は安全なんです」
「えっ!洞窟は崩れやすくて危険なんじゃないですか?」
「そうではないんです。今も崩れずに残っている鍾乳洞は、過去何万年もの間に、今回の地震よりもさらに大きな地震を何度も受けてきました。それでも崩れずにあるということは、洞内のほうが外より安全ということなんですよ」
「なるほどねー」
感心して聞いた。
 走り出すと昔の電気屋がみえた。よほど以前に廃業したと思われる店には、変色して消えかかったビデオデッキの看板が掛っている。ビデオデッキが売り出された頃は、どこの町にも家電製品を扱う小売店があり町中に活気があった。この町も同様に以前は活気があったのだろう。残されている看板が、ローカル線の寂れた町を物語っていた。
 小野新町(おのにいまち)駅に着くと制服姿の車掌が降りた。ワンマンなのに車掌が乗っていたのだ。(何だろう‥‥、ここはちょっとした終着駅のような所なので、管理所とか、何かそのような施設があるのだろうか?)これから先の峠を越え小川郷の駅まで行く列車は極端に少ない。一日四本、それも朝夕で、日中は走っていない。
 駅を出て右手にある集合住宅の壁は、この地方の祭りが大きく描かれていて町の宣伝に一役買っている。
(もしかすると、町営住宅なのだろうか?)
さらに走ると、前方遠くの高台に小学校らしい建物がみえた。小学校にしては、車が多く止まっている。近づくとデイサービスのようだ。廃校になった小学校を再利用して、運営しているとしたら素晴らしい。還暦を過ぎた老人が、昔通った小学校にまた入学する。夢がある。右の窓から見える夏井川沿いには、千本桜と呼ばれる桜並木が続いている。桜の花と新入生の姿は、日本の春を象徴する情景画だ。いつになっても新学期は春であってほしい。徐々にエンジンの響きは重くなり峠に向かった。
 夏井(なつい)駅近くには広い水田があり、構内には夏井渓谷の案内板が出ていた。走り出すと左の窓の奥に水路式発電所が見え、渓谷の感が高まる。次の駅までに大小六本のトンネルを通過する。
 川前(かわまえ)駅でも待ち合わせがあった。車輌は二両編成。ほとんど乗客はいない。左側に周囲の風景に不似合いな、昭和時代の大きな小学校がある。やはりこの辺も、昔は子供が多かったのだろう。散歩中と思われる母子が、校庭から手を振っている。その光景は、自分の幼年時代を思い出させた。私が育った家は、すぐ後ろに東北本線が走っていた。母と一緒によく汽車を見て手を振っていたものだ。心の奥で眠っていた母との情景が、秋の光の中に淡くうかんだ。
 ディーゼルカーのスピードが上がると、時々エンジンを止めて惰性だけで走る時がある。静かな風景の中にレールの継ぎ目を通過する音だけが響き、ローカル線の旅愁を誘う。それがいい。線路と並んで右側を走る夏井川の清流は、川面に淡い光を受けて秋の錦を織りなしていた。途中の川沿いには、釣り堀センターや旅館などもみえる。
 江田(えだ)駅は無人駅だ。目を楽しませてくれた渓谷の終わりが近づく。右側にあった夏井川は駅を出ると左側に変わる。一つ目のトンネルを抜けると発電所がある。五つ目のトンネルを抜けるとまた発電所がある。このあたりに点在する水力発電所の電力をみんな集めても、福島第一原発の一機分にも及ばないのだろう。しかし、どんな事故が起きようと放射能は放出しない。急流はまた右側へと変わり、徐々に里の川になってゆく。広い水田が現れ、稲を積み上げた(藁もこ入道が)、列車の到着を歓迎している。花畑が見えた。一面に美しく振れる、ホワイトとピンク色のコスモスの中に、ブルーの朝顔が少しだけ、
「私も見てね」
と、一緒に咲いている。朝顔は夏だけの花ではないようだ。秋の朝顔は清しい。また別の文化圏に入ったのだ。里の川は平地を蛇行し、また左側に変わった。
 小川郷(おがわごう)駅は今までと少し違った。何と、十人近い乗客があったのだ。乗り込んできた客は、ほとんどが顔見知りらしい。騒がしく話しながら車輌の一番後ろまで行き座った。夏井川は広くなり、岸には竹藪が目立つ。阿武隈川もそうだが川岸に竹藪が多いのは、この地域の特徴なのだろうか?列車が進むにつれ、一般住宅が線路の近くに増えだし、終点が近づいていることを教えている。
 赤井(あかい)駅に着く。いわき駅の一つ手前まで来たのだ。構内には何年も通ったことのないような、赤茶けた色の引き込み線が二本あった。留置線だったのだろうか?この表面まで錆が浮き出たレールも、列車の運行が多かった時代には活躍していたのだろう。弱くなった秋の陽射しは追憶を誘い、こんな風景も秋空の下で寂しさを誘う。駅を出ると、線路脇にスクラップ置き場があり、生活臭が増してくる。やがて右奥にビルが見え始め、電化された複線が並行して走りだす。常磐線と並んで最後のトンネルを抜けると、広い構内は線路が何本も交差しあっていた。
(いわき)駅のホームに入った。九時三八分。一時間三八分の磐越東線の旅が終わる。到着と同時に全てのドアが自動で、いっせいに開いた。駅は橋上駅になっている。駅への登り階段は、車両最後尾にあるドアの前にあった。
(小川郷から乗った客は、位置関係を熟知していたのだった)から