夢経さんの家

乗れた


乗れた
 「遅くなると倒れるぞ!」大声で叫びながら手を放すと、三メートル位ふらふらと走った。
 「あっ乗れた‥‥」
 小さな鼻を膨らませて、得意満面だ。平成四年の秋、五才の娘が初めて自転車に乗れたのだ。その後一時間も練習をすると、かなりの長い距離を走れるようになった。
 私が子供の頃は三角乗りと称して、半立ち姿勢で大人の自転車に乗っていた。今は子供自転車があたりまえになっている。三才の頃から補助車を取付けて練習していたのだが、いっこうに乗れなかった。今年になって、どうにか足が地面に着くようになったので補助車をはずした。バランス感覚を覚えさせようと、足を両側に広げさせて、早い速度で押しては放す事を繰り返した。(やじろべえ)の原理である。そんな方法が効をそうしてか、どうにかやっと乗れるようになったのだ。
 自転車に乗れるようになると、行動範囲が広くなる。今まで歩いて行った場所へ自転車で行けば、時間がかなり短縮される。人間が作り出した移動機械を、初めて利用できるようになるわけである。
 翌年六月、梅雨の中にアジサイの花を見た。毎年の事なのだが、今年は妙に過ぎ去って行った青春が蘇ってきた。沈欝な灰色の空、たっぷりと水分を含んだ空気、青臭い栗の花の香り。そんな中に淡く咲く紫の花が、やり残した青春を思い出させた。当時の思い出に、自動二輪が抜けていたのだ。これからやってくる夏を、体じゅうに風を受けて走り抜けてみたいと思った。
 その夜、妻と子供達に言った。
「俺はこれから自動二輪の免許を取って、中年ライダーになるぞ」
 また病気が出たのだろうと、妻は一言、
「せいぜいがんばってね」
免許が取れて、オートバイが手に入ったときに、きっと言うだろう。
「やっと乗れた‥‥」