|
||
平日はほとんど新聞を読まないが、日曜日だけは朝からゆっくり眺める。コラムを読んで、今日は「父の日」であることを思い出した。文面には概ね二つのことが書かれていた。 一つは、(男は無意識のうちにも、父は人生の師、あるいはライバルと思っているのではないだろうか?)と、いうこと。もう一つは、(今の社会は、父性が見当たらない時代ではないだろうか?)と、いうことである。最後に、歌人の佐々木幸綱さんの作品〈父として幼きものは見上げ寄り、ねがわくは金色の獅子とうつれよ〉を取り上げ、(父の日にプレゼントなどいらない)と結んでいた。痛く感動した。 私の子供は三人とも娘である。女から父はどのように写るのであろうか。人生の師でもないし、ましてやライバルでもないだろう。 私は家族を連れて外食にいったり旅行に出かけたり、ほとんどしていない。そうすることが、(父親としてさして大切なこと)、と思っていない。人に言わせると、私は昔型の父長制度の父もどきで、結構やりたい放題をやっているらしい。そのせいで、私も(父の日のプレゼントなどいらない)と、思うのだろうか。 いつの間にか父の日ができた。こんな日があるなら、逆にこの日は、普段好き勝手をさせてもらっている妻子に、感謝する日にしようと思った。父として家庭に感謝する日を、『父の日』とするのである。 昼食を食べ終わった後、さっそく妻にいった。 「これからは、俺が父としてみんなに感謝する日を、父の日とすることにするぞ」 「まあまあ、ししょうなことで」 「今日は夕飯を外でご馳走するから、四時になったら風呂に入るぞ」 「はいはい」 まんざらでもないようだ。 午後はゆっくり、つげ義春の「無能の人」を読んでいた。やがて四時になり風呂が汲めたという。 「おーい、お父さんと御飯を食べに行く人は、いっしょに風呂に入るんだぞ」 普段、私と風呂に入るのを嫌がっている娘達が服を脱ぎ始めた。 私は熱い風呂に入る。 「熱いのは最初だけだから、さあ入れ」 これが、いっしょに風呂に入るのを嫌がる第一の理由らしい。次に、頭からザブザブお湯をかけて、頭を洗ってやる。これが第二の理由らしい。今日は目の前にご馳走がちらつき、我慢をして入っているようだ。 明るいうちに入る風呂は、まことに持って気持ちが良い。熱い湯を浴びて、下駄でも履いて散歩に出た日には、満足の至りである。石鹸くさい匂いで歩いていると、自分だけが清潔な体で、神々しい貴族になった気持ちがするものだ。まあ、単純なものである。 風呂から上がると、小学校二年の長女を連れて、十五分ほどかかる駐車場まで車を取りにいった。途中、畑の作物や樹木の名前を、いろいろ聞いてみた。 「あの毛虫のような花がぶら下がった木は、なんの木だ?」 「栗の木だよ」 梅雨時にひっそりと咲く栗の花は、けっして美しくはない。高湿度の濡れた空気を伝わってくる花の香は、青臭く辺りをしっとりと包み込んでいる。 「あの、つんつん葉っぱの紫の花は何だ?」 「うーんと、花札にあったよね」 アヤメの濃い紫と真っ直ぐ伸びた葉は、しょうぶ湯に入った少年時代を思い出させる。 「それじゃー、あのオニギリみたいな紫の花は何だ?」 「うーんと、何だっけ」 沈鬱な照度の低い日は、雨に沈む紫色のアジサイが、湿った大気を伴い悶々とした思春期を倣彿させる。明るい小雨の日には、薄日に輝く紫色のアジサイが、清楚な光を放ち夢と微かな不安の入り混じった、青春時代を思い出させる。 梅雨時の植物の色は、秋に見られる完成された色彩とは異なり、これから伸びて夏を乗り切る、若いみずみずしい美しさである。歳を重ねるごとに、梅雨の静かな雨が好きになっていく。 私の娘もいつの日か、自分の思い出と共に植物を眺め、季節毎の空気の匂いに思いを巡らせる日が来るのであろう。そんな日に、『父』とはどんなものとして、思いに残るのであろうか。人生の師でありたいとも、ライバルでありたいとも思わない。いかに忙しい日々の中にあっても、美しいものに感動できる先輩でありたい。 ![]() |
||
|