夢経さんの家

アブ


アブ
 隣にいた乗客は、慌てて顔の回りを手で払い回した。どこから入ったものか、電車の中に虻が入り込んでいたのだ。ガラス窓にとまったのを見て、彼は手にしていた新聞紙でたたこうとした。緑色に輝く目をした虻は、人間の遅い動きをひやかすように飛んで行った。
 「キャー!虻!危ない!」
 どんな虻を見ても恐がる人がいる。それはそれで、身の安全を守るには良いのかも知れないが、人間の役にたっている種類もいることを知ってほしい。虻には多くの種類があるのだ。
 虻は、蝿や蚊の仲間で双支目という目(もく)に属している。昆虫は普通、羽が二枚ずつ二対ある。ようするに羽が四枚あるのが一般的だが、双支目は一対で二枚しかない。後羽は退化している。幼虫はうじ虫型で、完全変態をする。双支目は世界中に分布しており、約一万種位が確認されているらしい。
 このうち、四分の一に当たる、二千五百種が「アブ科」に属している。この中のほんの一部が、温血動物の血を吸う危険な「虻」ということになる。この種は血だけでなく花の蜜等も吸っている。日本の最大のアブは、アカウシアブといい、二五ミリメートルから三五ミリメートルになる。これに刺されるとかなり痛い。刺すとはいっても、蜂などのお尻の毒針とは異なり、刺すのは口であることを、忘れてはいけない。この種はあまり活発に飛び回らず、一度留まると割合ゆっくりしている。私は子供の頃、輪ゴムで撃ち落とす標的として、けっこう殺戮した想い出がある。気の毒な遊び相手になって貰っていたものだ。
 虻の種類を並べると、
 「ミズアブ科」水生種では腐った植物や小昆虫を食べる。陸生種は腐った果実や朽ち木を食べる。一般に黒いものが多く、便所バチ等と呼ばれている。
 「コガシラアブ科」幼虫は蜘の体に穴をあけて生活をしているものが多い。成虫は花に集まり花蜜を吸う。
 「シギアブ科」小昆虫の、体液を吸う。
 「ツリアブ科」ヒメバチに似ていて、花に集まり蜜を求めて飛びあるく。
 「ムシヒキアブ科」蝿や小さい蛾を捕らえて、体液を吸う。
 これらを総まとめにして、「アブ」と呼んでいる。電車の中にいた虻は、ムシヒキアブ科に属する、シオヤアブだった。小昆虫を捕まえるだけに当然俊敏である。人間にとっては、益中になるわけだが、虻というだけで嫌われている。
 通勤帰りの満員電車も終点に近づく頃には、閑散としてくる。ふと前を見ると、対面の席に座っている乗客の足元で、先ほどの虻が羽を休ませている。
 そのうち彼が無造作に足を動かした拍子に、虻は左半身を踏みつけられた。もちろん踏んだ当の本人は少しも気づいてはいない。この事故は、虻の単なる油断なのだろうか。それとも、殺意を感じないときの虻は周囲に対して無防備なのだろうか。素早やかった虻が小刻みに振動しながら、必死に起きあがろうともがいていた。
 虻は電車が終点に着く頃、やっと立ち上がった。数分前の自信に満ちた駿敏な虻は、もう飛ぶ事ができない。哀れを乞うように歩く地虫になっていた。その後は好運にも、踏みつけられることなく、乗客の降りきった車内を這っていた。
 光の関係であろうか、虻の目が淡い金色に光った。遠い光のなかに、私は高校生の頃読んだ、志賀直哉の作品「城の崎にて」を思い出していた。作品に登場するイモリと今日の虻が重なって見えたとき、
(生と死とは両極ではなかった‥‥)という文章の一辺が頭の中によみがえった。