夢経さんの家

ポッポ汽車


ポッポ汽車
 栃木県矢板市で、昭和二九年から三七年まで幼年期を送った。薄れた淡い思い出の中に、(ポッポ汽車)と呼ばれていた汽車がある。それは、矢板駅の隅から東北本線とは別に発着している、小さな蒸気機関車だった。本線を、青森のほうまで力強く走る大きな機関車に比べると、小さくて頼りない姿だった思い出がある。長い煙突から煙を吐く、双瘤ラクダの様な形の汽車だった。機関車としての記憶しかなく、あとは何もわからない。ポッポ汽車を調べてみようと思った。

 ネット社会が発達し、ポッポ汽車を一通り調べることは簡単である。当時の路線図、鉄道としての時代遍歴はもとより、廃線跡地を巡って撮った写真が、相当な枚数アップロードされている。
 ポッポ汽車の路線は(矢板線)といい、現在は日光市になっている新高徳駅と、矢板駅間を結んだ、全線二三・五キロの鉄道だった。私が見た頃には、東武鉄道所有の路線として営業していたようだ。矢板に東武線があったとは驚いた。
 高原山麓で伐採した木材や、天頂鉱山の鉱物資源を搬送するために開発されたらしい。昭和四年に下野電気鉄道が、それまで七六二ミリの軌間だった線路を一〇六七ミリに改軌して全線を開通させた。一般の軌道幅に広げることによって、日光線への乗り入れも可能になった訳である。東武鉄道から蒸気機関車三両、客車二両、貨車二両を借り入れて、運転が開始された。
 その後昭和一八年に、陸上交通事業調整法に基づき東武鉄道に買収された。戦後、東武日光線の整備が進む中で、幹線ルートから外れた矢板線は、手を加えられることなく開業当時のままの姿で、昭和三四年六月に廃線となった。この月の出来事を調べると、朝日放送テレビの発足、長嶋選手が展覧試合でサヨナラホームランを打ったとある。ずいぶん古い話だ。
 蒸気機関車が客車と貨車を同時に牽引する、昔ながらの混合運行形態が、三十年間最後まで続いた。東武鉄道が蒸気機関車を使って旅客を運搬した、最後の路線だったとのことだ。こんな記録があると、誇らしいものだ。
 ポッポ汽車は明治生まれで、マンチェスターにあるピーコックという会社で作られた。英国製である。昭和三〇年代の矢板市は、時間が悠々と流れ、ポッポ汽車はもとより、古いものがあちこちに残っていた。時々馬車が道路を走っていたし、馬の蹄鉄を作る鍛冶屋が近所にあった。鉄を打つ音が聞こえていたものだ。祖母が道路に落とした馬糞を拾ってきて、庭木の根元に置いて肥料にしていたことも記憶にある。
 機関車の写真もインターネットに掲載されていた。やはり双瘤ラクダの形をしている。いろいろ調べると、明治二二年に初製造された、鉄道院五六〇〇系が、私の記憶に残っているポッポ汽車のようだ。機関車に、燃料の石炭や水を積載した車両を接続している形式で、テンダー機関車と呼ばれる。製造がピーコック社なので、略して(ピーテン)と呼ばれていた。撮影された時代が古くて画像は見づらいが、ユーチューブで三〇秒程度の動画が見られる。廃線の翌月にニュースで取り上げられていたようだ。
 映像を見ていたら、子供の頃に聞いた話を思いだした。亡くなった叔父が、
「登り坂になると、汽車が止まりそうになり、客が降りてみんなで押したんだぞ」
と、乗車した時の話をしてくれた。のどかな時代だったようだ。
 ポッポ汽車が廃止になった昭和中期、
「明治は遠くなりにけり」
と、誰かが言っていた。今や、
「昭和は遠くなりにけり」
私も昭和を懐かしむ年齢を迎えた。