夢経さんの家

線香の香り


線香の香り
 子供の頃には、線香の香りが身近にあった。私の家は、けしてお寺関係ではない。ごく普通のサラリーマンの家庭だった。家には仏壇があり、毎日祖母が線香を焚いて、お経をあげていた。私も学校から帰ると、ランドセルを放りだし、とりあえず線香をあげる。小さな鐘をチンチンと二回鳴らして、遊びにとんで出た。遊び疲れて家に戻ると祖母が、
「つねお、仏さんに煎餅があがっているぞ。手を洗って、線香をあげてから食べな」
「うん、わかった」
 当時、子供がマッチに触ることは、どこの親も許さなかった。しかし、線香を焚くために、ローソクに火を点けることは、黙認されていた。ローソクの炎は、明るいところと暗いところがある。一番早く線香に火が点く部分は、明るい炎の先端であることを、経験から知った。芯に近い部分は青白い。ロウが溶けて液体になっている。これを線香に浸けて炎にかざすと、よく燃える。そんなことをしていると祖母が、
「火わすらをしちゃ駄目だぞ」
途端に叱られる。
 深緑色の線香を、そっと火にかざす。先端にポッと火が付く。手を振り炎が消えると、白濁した細い煙が揺れ、杉の香りが漂う。線香の香りは、いつでも身近にあったのだ。
 おとなになり実家を出ると、線香の香りは身近から消えた。長い間消えている。時折実家に帰り、仏壇を覗き込む。線香を焚かなくても、線香の香りが満ちている。祖母が長い年月をかけ、線香の香りを仏壇にしみこませてきたのだ。香りに包まれ、目を閉じると、祖母が笑いかける。
「今日は、お菓子はおいてないよ」
 香りと思い出が一対になっている。私にとって線香の香りは、祖母を思い出す魔法のようなものらしい。
 (八百字限定)