夢経さんの家

風太郎 歯科へ


天下御免の風太郎 歯科へ
 私の歯は、相当材質が良いようだ。生まれてこのかた六十年、歯医者に行ったことは五回位のものだろう。小学五年生の時が最初の一回目だと思う。動いてはいるがなかなか抜けず、痛みのひどい乳歯を抜きに行った。歯茎に痛い注射を打たれて、ペンチのようなもので歯を引き抜かれた。相当血が出た。診察椅子の脇にある金属製のコップで、何度もうがいをしたことを憶えている。
 当時何本かの虫歯があった。しかし、痛みはなく乳歯だったので、そのうち生え変わった。一番大きな虫歯を、フィルムの缶に入れて仕舞っておいたのだが、いつの間にか失くした。その後いつ頃かよく覚えていないが、右上顎の奥に(親知らず)が一本生えた。
 私の歯に関する知識は乏しい。歯科に行くにあたって、歯について調べてみた。人間は(親知らず)を除いて、上下左右七対、つまり二十八本の歯があるようだ。早速鏡で見たら、そのとおりになっていた。それぞれの歯には名前がついている。前歯と奥歯だけの簡単な分類ではないようだ。正面の中切歯から五番目の第二小臼歯までの、上下左右二十本が永久歯に生え変る。その奥の第一第二大臼歯は、乳歯ではなく抜け変らない。第三大臼歯に該当する(親知らず)は、生えない人もいるようだ。現に私は一本しか(親知らず)が出ていない。
 三十歳になった頃だったろうか。奥歯に小さな虫歯が数か所できたので、削って何らかの金属を埋めてもらった。その後は四十歳前だったかと思うが、(親知らず)と奥歯の間に隙間ができて、食べかすが詰まり易くなってしまい困っていた。その時は歯医者でセメントのようなものを埋めてもらった。その後詰め物は無くなっているので、きっと食べてしまったのだろう。
 四十歳後半には、問題の(親知らず)と奥歯の間を楊枝で突つきすぎて、歯茎が膿を持ってしまった。このときにも歯医者のお世話になった。この忌々しい(親知らず)では苦労してきたが、大人になっての出来事なので、まさに親は知らなかった。番外編は、歯茎に魚の骨の欠片が突き刺さり、自分では抜けないので歯医者に抜いてもらった事がある。そのときは何故か歯の清掃がセットになった。
 五十八歳を過ぎた頃、いつも問題を起こす奥歯に、冷たい水が浸みるようになった。いよいよ奥歯が駄目になってきたようだ。その後、怠慢な私が治療を始めるまでに、三年の月日が経っていた。
 平成二十七年三月の春分を過ぎた頃、いよいよ治療の決心をした。私の住んでいる地域には、相当数の歯科医院がある。評判の良いS歯科医院に行くことにした。入口の戸を開けると、小さな待合室は空いている。早速、受付係に尋ねた。
「虫歯を治したのですが?」
「予約はいつにしますか?」
「今日ではだめなのですか?」
「予約制ですから……。待ち時間は判りませんが、予約の間に時間が取れたら診察できると思いますが、待ちますか?」
天下御免の風太郎、制限時間はないのだ。
「待ちましょう、お願い申す」
治療手形(健康保険証)を渡した。
一時間以上待った後で診察室に呼ばれた。先生が尋ねる。
「如何なされた?」
「奥の虫歯を治してくだされ。冷たい水が浸みて、痛くて切ないのです」
金属の棒でグリグリと奥歯を調べた後、歯茎のレントゲン写真を撮った。
「親知らず脇の奥歯が原因ですな。虫歯は相当進行しておりますぞ。このままでは治療ができないので、次回、(親知らず)を抜いてしんぜよう」
おっ!大変なことになった。少年の頃に歯を抜いた痛みを思い出した。
「抜かないと駄目でござるか?」
「駄目ですな。どうせ相方のない(親知らず)です。かえって無いほうが良いのですよ。簡単に抜けますから、心配なさらぬよう」
次回の予約を取って、暗愁の思いを抱いて帰宅した。その後診察は十八回を数え、期間は半年弱に及ぶ事になる。
 四月に入った十日後、再び治療に出かけた。予約があるので長くは待たない。憂鬱の翳を背負って診察椅子に坐した。
「医師殿、痛くはござらぬか?」
「すぐに抜けるから大丈夫でござる」
かなり細い注射針を歯茎に打ち込んだ。チクリと軽い痛みを感じたが、だんだん感覚がなくなっていく。針を何回か刺した後で、太い注射針を打ち込んだ。もちろん痛みはない。昔の感覚とは違っていた。
「さあ、歯を動かしてみますぞ」
左上顎で、ゴリッという感じがした。
「もう歯は抜けましたぞ。うがいをして下され。後で痛むようなら、痛み止めを処方しておきますので飲むように」
あっけなく抜けたものだ。うがいの後で尋ねた。
「医師殿、頼みがござる。抜いた歯を頂きたいのだか、如何なもので?」
すると先生は大きな声で、
「お土産いっちょう!」
すかさず看護師は、
「はーい、すぐ御用意します!」
マジックチャックの付いた、小さなビニル袋に入った土産(親知らず)が渡された。相当汚い歯だった。こんなものが生えていなければ、こんな事態にはならなかったのだ。翌日、消毒のため訪院したが、治療は数分で終わった。
 一週間後の四月半ばから、衛生士による歯の清掃が開始された。清掃終了までには通院四回を要し、季節は梅雨を迎えていた。
「今日で歯の清掃は終わりますぞ。次回からは歯の治療に入り申す。歯茎も回復したので大丈夫のようです」
これまでの間、抜歯した歯茎の回復を待っていたのだった。それにしても時間が掛るものだ。
「いよいよ治療でござるか?今回のような清掃は、年に一度くらい実施したほうが良いようですな」
「何を言っておるのです、普通は三か月に一度くらい実施するものです!」
「さようでござったか………」
そんなものなのだろうか?
 六月に入った霧雨の中、傘をさして病院に向かった。やっと今日から本来の治療が始まる。診察室に入ると先生の説明があった。
「先ず神経を撤去し、歯を少しずつ削りながら、虫歯がどこまで深く進行しているかを調べてゆきますぞ。」
「処置する歯は残せるのでござるか?」
「最悪、抜かねばなるまいの」
小さな針の付いた機械が口の中へ入る。キーン!高周波が歯から頭蓋骨に響いた。
削ったところを消毒して仮蓋を付ける。この削孔作業は三回目を迎え終了した。その後は埋戻しの工程に入る。削った部分に詰め物をしてゆくのだ。
 七月の初日、歯茎に針を刺してレントゲン写真を撮った。次の治療は何をしたのか判らなかったが、いつもより長い時間を要した。次の工程で歯茎に打ち込む、杭になる芯の寸法を決めていたようだ。やはり次週の処置は、歯茎に芯を打ち込む治療だった。
 八月を迎えようとする次の来院で、いよいよ歯型を採る工程まで進んだ。
「医師殿、口の中に光るものがあるのは、どうも嫌なので、歯と同じような物で治療は出来ぬものでしょうか?」
「出来ない事は無いが、高額の治療費を要しますぞ」
「如何ほど掛るものでござるか?」
「治療手形が使えぬので、数万円かと思われるが、如何いたすか?」
これは驚いた。(治してもらう歯は一番奥だ。まあ普段見えないという事で諦めるか)心理学でいうところの合理化が脳内を調整する。
「手形使用でお願い申す」
「あい判り申した」
歯型を採るために口の中に何かを押し込んだ。
「入れたものを噛んで下され」
セメダインのような臭いがした。(おお!セメダインだ!マズイ接着してしまうぞ!)しかし、心配には及ばなかった。先生は別の患者を診た後、
「もうよいでござる。口を開けて」
見事に型が採れていた。
 臼歯(奥歯)を直す材料を調べてみた。今回使うものは、金銀パラジュウム合金、早い話が普通いう銀歯で、保険が適用される。他にゴールドがある。いわゆる金歯で保険適応外である。他にセラミックス製もある。見た目は一番歯に近いが、硬すぎて臼場には向かないとの見解もあるようだ。ハイブリッドセラミックスという、比較的柔らかい物まである。これらは全て保険適応外になっているようだ。
 次回はいよいよ取り付けかと思ったら甘い。次の工程がまだあったのだ。前に埋込んだ芯に土台を取り付ける治療が一回、さらに取り付け準備をして、歯型を採ったセメダインのような物で蓋を付けておく治療が一回あった。
 八月の末、ついに取り付けの日がきた。
「風太郎殿、やっと最終でござる」
「よろしくお願い申す」
治療は短時間の内に終了していた。この日から歯の一部が、金属の部品になったのだ。ここで、やっと終わったと思ったら然にあらず。次の週には、取り付け後の適合状況を確認するとの事で、さらに通院は続くのだった。
 一週間後、(さてさて長いこと掛ったものだ)と思って出かけと行くと、
「長いことご苦労でござった。取り付けは問題なし。良く馴染んで居るようじゃ」
「お手数をかけ申した。このような治療をクラウン修復というのでござるか?」
「良く知っておりますの。勉強しましたな。今度は、このような事態にならぬ勉強をして下され」
心中、トホホホとなる。
「あい解り申した」
「それでは前歯を清掃してお帰り下され」
衛生士の清掃を受けた。その折、衛生士曰く、
「来週もお越し下され。次回、歯全体の清掃をして一連の治療は終了ですぞ」
「はあ、そうでござるか。では次週参ります」
治療開始当初に四回の清掃処置を受けたが、もう半年近く過ぎていたのだ。
 最後に、せっかく勉強したクラウン修復について記しておこう。歯が虫歯などで大きく壊れた場合、金属などで修復する事になる。その修復物の総称が、クラウンとよばれている。クラウン修復の目的は、機能・形・美しさを回復することにある。歯の一部だけを修復する一部被覆冠、歯の全部を修復する全部被覆冠、神経を抜いた後、歯冠部分を切除して根管に維持を求め、歯全体を修復する継続歯冠がある。私の治療は継続歯冠に属した。
 通院十八回目に歯全体清掃を終え、今度こそ真の最終となった。季節はあと数日で秋分を迎えようとしている。歯一本の抜歯、第二大臼歯一本治療、都合歯二本の為に治療費は、何と参萬参千円を要した。(治療手形が無ければ、拾萬九千円掛る)
 恐るべし!歯の治療。