夢経さんの家

自転車でGo


自転車でGo
 仙台から引き上げるとき、通勤に使っていた自転車を後輩に預けてきた。
「今度のゴールデンウイークが明けたら取りに来るから、それまで乗っていてくれないか」
「いいですけど、なにで取りに来るんですか?」
「なーに、乗って帰るのさ」
「宇都宮までですか?」
「ま、そんなとこだ」
「……」
 
 仙台から宇都宮まで、約二百五十キロの距離がある。
M君は言う
「ツネオ、それは止せ、年を考えろ」
「まだ六十一になったばかりじゃないか、九州まで行ったやつもいるぞ」
「それは学生の時の話だし、ひと月がかりだったぜ」
「……」
S君は言う
「よせよせ、どうせ途中で走れなくなる」
「何日かかってもいいんだぜ」
「まずだめだから、途中で自転車は捨てて帰って来いよ」
「……」
U君は言う
「途中でパンクでもしたらどうするんだよ」
「三年乗ってパンクしなかったタイヤが、何で今回パンクするんだよ」
「相変わらず安易で無謀な考えだな」
「……」
Yくんは言う
「そんな長い距離乗ったことはあるのかよ」
「はじめてだ」
「一日目はいいけれど、次の日は尻が痛くて筋肉が張って歩けないぞ」
「……」
N君は言う
「金をかけて取に行く価値があるのか?そんなに高価な自転車なのか?いくらしたんだ」
「新車だったが少し錆びていたんで一万四千円だった。しかし変速機はついているんだぞ」
「ロードバイクじゃないんだろう」
「ああ、普通の通勤自転車だ」
「そんなもの後輩にやって、新しく買ったほうが利口だぞ」
「そうゆう問題じゃないんだよ…」
D君は言う
「途中でこけるんだから、そのときは電話しろよ。俺の車は自転車くらい積めるから迎えに行くぞ」
「そうだな,その時は頼むよ」
「ツネオは言い出したら止めねーからな。出発前に電話しろや、回収準備をするからよ」
「……」
妻と子供達は、いつもの事だと無言だ。ただ一人、末の妹だけが応援してくれた。

 いつの間にかゴールデンウイークが明けた。一週間後に取に行こうと決めた。その週の天気予報は火曜日が雨だった。デイパックに下着三組とカッパを入れて月曜日を迎えた。スタートは各駅停車の旅からだ。小手指発四時五十四分の初電に乗る。秋津で武蔵野線に乗換え、武蔵浦和で埼京線に乗替え大宮で宇都宮線に乗換える。大宮では朝が早いため、ホームの売店は営業が始まっていなかった。一旦駅を出てコンビニに行き、お茶と握り飯を買った。黒磯、郡山、福島で乗換えて十二時十六分に仙台につく。七時間二十二分、六千三百十円掛かった往路の旅が終わる。
 駅からまっすぐに支店に向かい、後輩から自転車の鍵を受けとる。
「本当にこれから乗ってゆくんですか?」
「ああ、そうだよ。すぐに出るよ。時間がもったいないからな」
「今日はどこまで行くんですか?」
「最低でも岩沼以上、行けるとこまでだな」
「途中で困ってもすぐ行けませんよ」
「そうだよな、まあ何とかなるだろうよ」
「今夜泊まるところはどうするんですか?」
「途中で当たりをつけてビジネスホテルに電話するさ、連休明けで空いているだろうよ」
「それじゃー気を付けて」
後輩は自転車のチェーンとギアにオイルをかけてくれた。手を振ってペダルに力を入れた。何を考えたか、まず手始めに床屋に行って散髪をした。(もうここにも来られないな)そんな思いの中、十三時半発の復路が始まったのだ。
 私の自転車はハンドルの前に籠がついている。これに荷物を入れてはしる。ハンドルは重くなるが、荷物を背にしょって走るよりは楽だ。新しくなったX橋を渡り仙台駅東口から荒町、河原町あたりを抜け広瀬橋を渡る。橋付近の左岸に(旅立ち稲荷)という神社がある。昔の旅人は、ここで道中の無事を祈願して旅立ったのだ。
 旧国道四号線で長町駅前から太子堂駅前を抜けて、名取橋を渡った。道は南仙台駅前から名取駅前をすぎて、やがて仙台バイパスと合流した。このあたりから、お尻に汗をかいたらしく、擦れてヒリヒリしてきた。半立ちになったりしながらさらに進む。仙台から宇都宮まで五十三の鉄道駅があるが、五つまで過ぎた。舘腰を過ぎて二キロ程来ると、今まで道路沿っていた東北本線が、道路から離れてゆく。岩沼バイパスを走る。国道六号線の分岐を過ぎ槻木の先にある白幡橋で白石川を渡り、県道五十号線で船岡観音の下を通り大河原に出た。在仙中、(一目千本桜)と呼ばれる見事な桜を見たが、秋の船岡城址に咲いた彼岸花も、突き抜ける青空に映え素晴らしかった。サドルにふれるお尻と太腿のあたりが相当痛む。道路はいつの間にか県道十四号線に代わっていた。道路を大きく右に曲がって大河原橋で再び白石川を渡り国道四号線に戻った。この橋は東北本線の上を超えて川を渡るので結構勾配がある。
 狭い橋の歩道部分を走って行くと、頂上付近で自転車の老人が道を譲って待っていてくれた。
「ありがとうございます」
双方お辞儀をして通り抜ける。仙台市内はともかく、ここまでほかの自転車に合わなかった。今時、四号線を走っている馬鹿者自転車は、まずいないのだ。その後も結局、到着するまで数人にしか会わなかった。出会った自転車は地元の人が、たまたま通過しただけのものだった。
 途中何度かお茶(朝買った残り)を飲むとき止まったが、後は走りっぱなしだ。相当足腰が痛み出している。北白川付近の自販機で最初のペットボトルのお茶を買った。その後、到着までに十本以上のお茶を買うことになる。結果的にペットボトルに使った金額は二千円近かった。 東白石を過ぎる。
 白石の市街地を左に眺めながら、バイパスの坂道が始まる。白石は十三番目の駅で福島まであと七駅である。時刻は十六時、出発から二時間半が経過した。(日の入りは十八時半頃のはず、まだ二時間半もある。福島を目指そう)この安易な判断は、悲惨な結果を引き起こすことになる。ここまにでに掛かった時間と、今後走ろうとする時間は同じでも、消耗しきった体力で国見峠を越えなければならない。さすがに東北縦貫道と交差する手前あたりで自転車を降りて、押し歩きになってしまった。越河までの約七キロ間は、自転車に乗ったり降りたり休んだりと一時間を要してしまった。牛馬沼付近の自販機でコーラを買った。(こんなに旨いコーラは何年振りだろう)青春時代に飲んだコーラの味が喉を一気に通過した。越河から貝田まで三キロ以上あり一部平坦な道路が続いたが、峠の最高点付近で、またしても急な坂を上る。ここまでに三十分を要し、十七時半過ぎから峠を下った。何もしなくても自転車のスピードは上がり、思わず大声で叫んだ。
「ヤッホー」
 一気に藤田まで十五分程度で下った。後は福島まで平坦な道なのだが、もう足が動かない。(十回程度こいではその惰性で走る)そんな動きになってしまった。この調子では、福島に着くのは二十時近くになってしまう。福島駅付近のビジネスホテルは良く知っている。とにかく福島まで行き着かなければならないと、必死にペダルを踏む。桑折を過ぎて伊達付近まで来た。時計は十八時半を過ぎている。焦りと不安の中で、ひたすら四号線を進む。(限界が近いなー)そう思ったとき、広い駐車場が目に入った。なんと健康ランドがあるではないか。(K王国・年中無休)と書かれている。躊躇することなくそこに飛び込みフロントに行った。
「ここで泊ることができましか?」
「仮眠程度ならできますが、入浴料二千円のほかに九百円ほどかかります」
「それではお願いします。今荷物を持ってきます」
これこそが天の助け。日ごろの行いの良さ。気持ちは生き返ったが、足腰はフラフラしている。
 入浴料を支払い、タオルと館内着を受け取り、更衣室に入った。無造作に荷物をロッカーに投げ込み裸になると、大きな湯船に飛び込んだ。風呂は空いていた。肛門の辺りがやけに浸みる。湯に浸かった後、露天の寝椅子に横たわった。薄暗くなった空には星がない。(やはり明日は雨のようだ)気分は滅入った。ジャグジー風呂に入り、出たり入ったりしながら、脹脛と腿を丁寧に三十分以上掛けて揉みほぐした。何を思ったかサウナにも入ったが、三分もすると出るようだった。ここは汗を出す場面ではない。もう体の水分はとっくに出きっている。馬鹿なことをしたものだ。水風呂に入ると、筋肉が冷えるので止めにした。温度の低い露天風呂に浸った。更にマッサージを続けて風呂を出た。
 館内着に着替え食堂に行く。四名の客が、めいめいにビールを飲んでいた。私はテーブルに手をついて、ゆっくりと腰を下ろした。手をつかなければ、足が崩れてしまうのだ。たいした食欲もない。塩分補給も考えてタンメンを注文した。七百五十円。けして高くもない。大きな器に入った麺が出てきた。見た目はおいしそうだったが、とりとめて旨くもなかった。味覚も疲れ切っているのかも知れない。食べ終わると、またテーブルに手をついて立ち上がった。
 休息室に入り、ソファーに腰を落とした。毛布をかぶり眠りについたが、恐ろしい大いびきに起こされた。十五秒ほど静けさが訪れると、再び強烈な爆撃が始まる。時計を見るとまだ二十三時だ。(最悪の状況になってしまった。神も仏もいたけれど悪魔もいたのだ)休息室を出て隣に行ってみると、そこには仮眠室と書かれた部屋があるではないか。扉を開けると簡易なベッドがいくつも並んで、七割片は埋まっていた。私も空いているベッドに横になった。
 翌朝五時に目が覚めた。体の痛みはかなり和らいでいる。窓の外には雨の中を走るトラックが見えた。普通であれば気持ちの良い(朝風呂一番)となるのだが、雨の中を走らなければならないので止めた。休息室に行きソファーに横になりテレビをつけた。すでに昨夜の爆撃王はいなかった。天気は九時過ぎに回復するとの予報だ。六時過ぎにロッカーに戻り、着替えを済ませ荷物を整理した。フロントに行き宿泊代九百円、タンメンとペットボトル代で九百円、合計千八百円を精算した。現在位置は、伊達駅から一キロほど東の国道沿いである。
 自転車に行き準備をした。カッパを着るので相当汗をかく。カッパの下は、肌着とポロシャツにした。実は雨天を想定して、カッパのほかにビーチサンダルを持ってきたのだ。雨靴は荷物になるのでやめにしていた。足は始めから濡れる覚悟でサンダルにしたのだ。荷物は大きなビニール袋に、一つにまとめてかごに積んだ。K王国に向かい(今回は本当に助かりました)、心の中で手を合わせ走り始めた。サンダルに靴下を履いたカッパ姿の自転車姿は、さぞかし異様だったろう。出発時刻は六時五十分だった。
 雨の中、意外に足は動いた。福島への道中に点在するバス停には、学生や勤めの人が並んでいる。東福島を過ぎて福島市内に入ったころには、小学生が登校していた。大仏橋で阿武隈川を渡り一キロほど行くと、弁天橋でまた阿武隈川を渡る。川は大きく蛇行しているのだ。橋の下をのぞくと、雨で水かさは増していた。道路はまた登り坂をむかえる。福島盆地が終わるのだ。長い坂になると、足が完全に回復していないことを痛感させられる。南福島、金谷川と進むのだが、四号線バイパスは、金谷川の駅から一・五キロほど東を抜けている。登り降りのある道を、松川、安達、二本松と雨の中を走る。途中、ペットボトルのお茶を二本消費している。当節どこにでも自販機はあるので助かる。
 二本松を過ぎてカッパを脱いだ。肌着はもとよりポロシャツまですっかり汗でぬれていた。杉田を過ぎると平坦な道が続いた。お尻と足の付け根はやはり痛い。肛門付近のヒリヒリはすっかり良くなっている。昨夜の風呂はまさに天の助けになっていた。本宮を抜けると日が差してきた。更に五百川、日和田と進み国道が二つのルートに分かれる。私は市内を通るルートを選んだ。バイパスのおかげで旧道の混雑はなかったが、須賀川に向かい長い登り勾配になっている。予定より早く十二時前に郡山駅前を通過した。疲れた体がひどく甘いものをほしがっている。ビックパレット福島の付近にあるコンビニで、ソフトクリームを食べた。これはとにかくうまかった。今まで食べたなかで、一番おいしい二百二十円のソフトクリームだった。また走り始め、どこかで昼飯にしようと物色しながら走っているうちに、安積永盛まで来てしまい街並みがなくなっていた。更に行くと交差点の角にK食堂という名の、昭和レトロの店があった。店内はまさに昭和のまま、時間が止まっていた。入ってきた客が、
「今日の定食はなんだい?」
「イカリングとコロッケだよ」
「それでいいや」
「毎度。日替わりいっちょう!」
違和感なく店と客が溶け込んだ世界があった。私は何を思ったかハムエッグ定食を注文した。タブレットで道筋を確認していると、ボンレスハムに目玉焼きが二つ乗った皿と、漬物の小鉢と味噌汁ご飯が出てきた。ご飯の盛がすごく良い。ご飯に漬物をのせて食べ始めた。うまい漬物だ。しかし、肝心なレトロなハムエッグはあまり旨くない。どうも油がよくないようだ。卵は半熟だったので、熱いご飯によく合った。味噌汁は田舎風で旨かった。六百五十円は高い気がした。(日替わり定食にしておけばよかった)後悔は先に立たない。四十分ほど時間を過ごして走り始めた。須賀川、鏡石、矢吹、泉崎と順調に走った。お尻や足の痛みもさほど苦にならなかった。十五時に泉崎のコンビニに入り、新白河附近の宿を探した。大風呂のあるホテルを選んで電話をかけた。
「もしもし、Nといいますが、今夜、部屋は空いていますか?」
「お一人様ですか?」
「そうです」
「たばこは吸いますか?」
「いえ吸いません」
「本館が開いています。西館も空いています」
「西館と本館となにが違うのですか?」
「西館は別棟なので、大風呂や食事は本館に来てもらうことになります」
「すると西館は安いのですか?」
「本館より安くなっています」
「それじゃー西館でお願いします。ちなみにいくら安いんですか?」
「本館は朝食付きで六千四百円で、西館は同じ朝食付きで六千百五十円です」
「その程度の違いなら本館でお願いします」
「わかりました。本日は何時頃お着きになりますか?」
「今、泉崎なので、自転車で行きますから十六時半頃になります」
「はい、それではお待ちしています」
こんなやり取りで、宿は容易に確保できた。
 泉崎を出発して久田野、白河と走って十六時にはホテルについてしまった。チェックインのサインを済ませて料金を払った。
「ところで、自転車置き場はどこですか?」
「そうでした、自転車でおこしでしたよね。自転車はロードバイクですか?オフロードバイクですか?」
「はあ、通勤自転車です」
「……。今夜は雨が降るらしいので、ホテル西側連絡通路に停めてください。屋根がありますから」
「そうですか、わかりました」
自転車を停めるのに、車種が関係あるのだろうか?妙な会話であった。
 荷物を持って部屋に入るなり、ベッドに大の字になった。昨夜のベッドとは格段の違いだ。昨日ほどではないけれど、相当体のあちこちが痛い。百キロ近く走っているのだ。少し横になった後大風呂に行った。時間が早いようで、誰もいなかった。湯船の水は温泉を使っているとのことだ。何度も湯に入ったり出たりして、両足とお尻の付け根を丁寧にマッサージした。三十分くらい入っていたが誰も来なかった。風呂を出て洗濯をすることにした。洗剤は一回分三十円、フロントで売っていた。洗濯機の使用料は二百円だった。洗濯機のスイッチを入れて部屋に戻る。五十分ほどして取に行ったら、白く縮れた小さな紙が、洗濯物のあちこちについている。どうやらポケットに、ティッシュが入ったまま洗濯したようだ。
 乾燥機もあり、三十分かわかして百円掛かった。乾いたらあちこちに付いていた小さな紙も容易に取れた。夕飯は外に出るのが面倒なのでホテルで食べた。上田チキンカレーというカレーライスを食べたのだが、カレーの脇に柔らかいチキンがついている。これが非常に旨い。八百八十円は安い!感動した。
 部屋に戻りゆとりができた。今さらながらに、走破した主な駅の標高を調べてみた。この場になって改めてそんなものを調べている自分を笑った。(誰かが言っていたように、安易で無謀な人間なのだ。それどころか馬鹿者に違いない)
 仙台駅の標高は三十三メートル、名取駅六メートル、岩沼駅四メートル、大河原駅十七メートル。この辺から登り始める。白石駅四十八メートル、越河駅百四十メートル、貝田駅百八十三メートル。ここから国見峠を下る。
 福島盆地に入り、藤田駅八十五メートル、伊達駅六十六メートル、福島駅七十メートル。盆地は終わり、金谷川駅百六十五メートル、二本松駅二百六メートル、本宮駅二百九メートル、郡山駅二百二十七メートル、須賀川駅二百四十四メートル、矢吹駅二百九十メートル、徐々に登ってきた。新白河駅は三百七十八メートルとなっていた。いずれも、JR駅付近の高さである。明日はいよいよ那須白河の峠を越えなければならない。最高地点で四百五十メートルある。不安な気持ちの中でいつしか寝入っていた。
 翌朝、当然朝風呂は止めた。六時半からの朝食バイキングを急いで済ませ、七時に出発した。空は薄曇り、日中は晴れて暑くなるとの予報だった。最初から緩い登り坂が続く。福島と栃木の県境を流れる黒川で一旦標高が下がる。橋を渡ると一気に峠に向かう。急こう配の長い坂は辛い。自転車に乗ったり、降りて押したりして進んだ。一・五キロも行くと最高地点を迎える。その後の坂道は快適だ。高原の風を受けて汗はひき壮快に走る。道路の脇にはクマ笹がある。途中には登り坂もあるが、全体に下ってゆく道は楽だ。新白河で近くにあった東北本線は三キロほど東を走っている。白坂・豊原・黒田原・高久まで離れていた鉄道が、黒磯で再び四号線に近づく。私は弓落の信号から県道を走った。交通量の少ない田舎道で気持ちが良い。那須分岐点交差点の先にある、晩翠橋で那珂川を渡った。標高は二百九十メートルまで下ってきた。体は徐々に汗をかきはじめた。
 那須塩原駅・西那須野駅を越えてコンビニで一休みをした。ここにはソフトクリームはなかった。マンゴーラテというものを頼んだが、作り方がよくわからない。店員さんにご指導をいただき、やっと出来上がった。外のベンチで食べながら涼んだ。
 今日は妻の実家がある氏家町で、泊めてもらうことにしていた。ここからは二十五キロくらいある。走り出して野崎を過ぎると、まもなく箒川を渡る。小学校低学年の頃が思い出された。これから通過する、矢板市に住んでいた頃のことだ。夏になると子供たちは町からバスに乗り、五円か十円の運賃を払って箒川まで泳ぎにきた。右岸のバス停前には茶店があり、かき氷屋をやっていた。店には駄菓子、ゴム製の茶色い水中眼鏡、ヤス(魚を突くもの)などが並んでいた。子供たちは川の中を覗き込み、カジカやドジョウを追いかけていた。水中眼鏡をつけて川を泳ぐと、流れの中にある大きな石の後ろに、アユやオイカワがゆっくりと泳いでいた。これらの魚をヤスで突くのは至難の業だった。ふと当時の水泳パンツを思い出した。その頃の水泳パンツは、何故かベルトが付いていて、前面の金具で止めていた。
 箒川を渡ると旧道とバイパスに分かれる。市内を抜けようと旧道を選んだ。東北本線を超えると平坦な道が続く。市内に入ると、亡くなった父が若いころ勤務していたA銀行が同じ場所にあった。この先は(本通り)と呼ばれていて、狭い市内を車が通過してゆく、危険な国道四号線道だった。私もこの道でオートバイにひかれたことがある。病院に連れ込まれたが、幸い赤チンキで済むケガだった。矢板バイパスの開通で、かなり以前から車の通らない道になっている。ここにも全国の例に漏れない、シャッター通りがあった。
 那須疎水などで活躍をした、矢板武記念館から片岡駅までは平たんな道だと記憶していたが、意外に起伏があった。途中何度も息が切れる。さすがに旧道の交通量は少ない。蒲須坂を過ぎバイパスに合流した。片側二車線の広い道が続き、氏家にある妻の実家に到着。時刻は、十二時十分。家にあがって鏡を見ると、疲れた様相は無く、ただ真黒な顔が映っていた。 
  (後日走る、宇都宮までの二十キロの道のりが、まだが残っている)