夢経さんの家

3・11その時


3・11 その時
「あっ、揺れてる、地震だ」
「なーに、すぐ止まるよ」
ここは川崎市の下水道工事現場である。地下二十メートル、底盤は直径六メートルで、坪数にすると八・五坪の、立坑の中にいる。土留めは、凍結工法により施工されていた。
「この地震、長いなー」
「おおっ!大きいぞ!」
周囲の凍土(低温で凍らせた土)がミシミシと音を立てた。
「全員地上へ退避!」
 作業員は道具を投げ出して、急いで階段を登った。階段は一つしかないのだが、混乱もなく一列になって上がってゆく。当然階段も揺れているが、地下の揺れは地上に比べると小さい。地震の大きさを実感したのは、地上に出てからだった。
 工事用の大きな水槽が揺れ、中の水が飛び出している。現場は停電になり、各機械は停止した。凍土を維持する電源は、発電機を使用しているので確保されている。凍土が溶ける心配はない。仮に電源がなくなっても、地下の氷がいっぺんに解けることはない。長時間にわたって、燃料の軽油が入手できなくなれば話は別である。
 立坑の脇に停まっていたダンプの運転手に、地震の状況を聞いた。ダンプにはラジオが付いている。放送局も混乱しているようで、一向に要領を得ない。とにかく相当大きな地震が三陸地方で発生したようだ。
 地震が治まると、各所の安全点検に入った。幸運なことに、現場に異常はなかった。工事の関係先にも、何とか連絡がついた。現場事務所に戻り、今夜の待機職員などのやり繰りを済ませて、新横浜の支店に向かった。
 帰社の手段は車しかない。第三京浜はストップ、一般道を行くことになる。道路の混雑は、相当なものになっていた。渋滞の原因は二つあった。一つは信号機が止まっているための渋滞、もう一つは歩行者の混雑による渋滞だった。これは鉄道の駅付近にくると、その都度発生していた。停電でガソリンスタンドも機能していない。ガス欠の車もあったに違いない。車が動かない反面、ラジオの地震関連放送はじっくり聞くことができた。地震の直後に、相当大きな津波が三陸を襲っているらしい。画像が見えないので、津波の程度は実感しにくかった。
 十五キロくらいの道程を、三時間かけて支店に戻った。会社は十一階にある。当然エレベータは動かない。避難した立坑よりも長い階段を登り社内に入ると、以外にオフィースは整然としていた。
「場所が高いから相当揺れたろう?」
「立っていられないくらい凄かったよ」
「それより、片付けが大変だったよ」
会社として、大きな被害はなかった。
 翌日の打ち合わせ等を済ませたが、帰宅の交通機関は全て止まっている。社員は何台かの車に相乗りをして、家の近い順に降ろしてゆくことになった。
 私の家は所沢である。あまりにも遠いので、一人、会社に停まることにした。誰もいなくなった社内は寂しい。やっと家族の無事が確認できると、急に空腹を感じた。食糧を仕入れるために、十一階の長い階段を往復する。階段を歩く音が静けさの中で異様に響き、不安と孤独感を深めていった。
 社内に戻り窓辺を見ると、いつもの華やいだ夜景はなかった。外には暗黒の世界が広がっている。応接室のテレビには、火災の為にまるで昼間のように明るくなっている、東北の海が映しだされている。地震の惨状を見ながら眠る、応接室のソファーは冷たかった。

 その後、私は仙台に転勤して復興のために微力を注ぐことになる。