夢経さんの家

東北本線五十三次


東北本線五十三次(仙台から宇都宮)
 東海道五十三次の語呂合わせではないが、平成二十七年春現在、東北本線の仙台駅から宇都宮駅までには五十三の駅がある。私は列車が好きで、この間の各駅停車には何度も乗っている。今回は五十三の駅を記録に残そうと思いメモを取りながら乗車した。昨年の十二月二十日のことである

 普段から馴染みのない駅などには、誰だってまったく関心がないものだろう。自分でも、まったく馴染みのない九州や四国の駅に関心がないのと同じことである。それを、しかも延々と五十三もの駅を書いてみた。本人と周りの人しか関心を持たない(自分史)などより、何十倍も退屈でつまらない作文を書いてしまった。しかし、よほど暇なときに、地図でも眺めながら読めば、少しは時間つぶしになるかもしれない。

 宇都宮は、仙台から南に約百九十キロ・西に九十キロ、直線距離にして二百十キロの所にある。三日前まで降った雪の残雪が、南南西に向かう途中で、どのように変わってゆくのかを観察してみた。雪が多く残っているのは、白石から藤田の間・鏡石と矢吹付近だったが、全体に黒磯までは大きな変化がなく、東北の風景だった。今回の旅で、関東の風景と気候を感じたのは、西那須野を過ぎたころだった。栃木県が南東北と言われるのも納得できる。

 仙台から宇都宮までの鉄道営業距離は二百四十二キロで、運賃は四千四百三十円である。単純に計算すると、一キロ行くのに十八円三十銭掛ることになる。
 運賃の話になるが、幹線(地方交通線以外)の旅客運賃は時刻表にも載っているように、営業距離が六キロまでは三キロ毎に、五十キロまでは五キロ毎に、百キロまでは十キロ毎に、それ以降は二十キロ毎に料金が上がる。仙台から宇都宮は二百四十二キロの距離で、四千四百三十円になっている。宇都宮の一つ手前にある岡本駅までは二百三十六キロの距離なので四千円になっている。岡本から宇都宮までの運賃は二百円なので、乗車券を分けて購入すると、合計四千二百円となる。仙台から宇都宮まで、通して切符を買うより二百三十円安くなるのだ。変な話なのである。

 東北本線はもともと、日本鉄道(にっぽんてつどう)という日本初の私鉄によって作られた。
・明治十六年に上野から熊谷の間が開業。
・明治十八年に大宮駅新設・同年、大宮から宇都宮の間が開業。
・明治十九年に宇都宮から那須の間が延伸開業・同年、那須から黒磯の間が延伸開業。
・明治二十年に黒磯から郡山の間が延伸開業・同年、郡山から塩竈(初代駅で塩釜港通りにあった)の間が延伸開業。二年間で宇都宮と仙台はつながった。宇都宮から仙台までの駅は、開通した明治二十年十二月十五日時点で十九駅(東北線十九次)だった。

・明治二十一年に岩切駅新設。
・明治二十三年に岩切から一ノ関の間が延伸開業・同年、一ノ関から盛岡の間が延伸開業。
・明治二十四年に盛岡から青森の間が延伸開業した。わずか九年で上野から青森まで開通させた(明治の力)には驚嘆させられる。その延長は昭和以前の鉄道距離で456M71Cとなっている。Mはマイルで、Cはチェーンとよぶ。現在距離に変換すると、735・3キロメートルになる。

 明治二十四年九月一日、青森まで開通した時点で作られていた駅は、上野・王子・赤羽/・浦和・大宮・蓮田・久喜・栗橋・古河/・小山・石橋・宇都宮・古田(後の路線変更で明治三十年廃止)・長久保(後の路線変更で明治三十年廃止)・矢板・那須(西那須野)・黒磯・黒田原・豊原/・白河・矢吹・須賀川・郡山・本宮・二本松・松川・福島・桑折/・越河・白石・大河原・槻木・岩沼・増田・仙台・岩切・塩竈(初代)・松島(初代)・小牛田・瀬峰・石越/・花泉・一ノ関・前沢・水沢・黒沢尻・花巻・日詰・盛岡・好摩・沼宮内/・中山・小鳥谷・三ノ戸・剣吉・尻内・沼崎・野辺地・小湊・浅虫・青森となっている。

 その後日本鉄道は、
明治三十九年に公布された(鉄道国有法)により国有化された。その時点で宇都宮から仙台間は三十四駅に増えていた。
 三公社の一つであった日本国有鉄道は、
昭和六十二年に、(日本国有鉄道改革法等施行法)の規定により分割民営化され今に至っている。現在ある宇都宮から仙台間の駅は、平成十九年に新設された一番新しい駅(太子堂駅)を加えて五十三駅(東北線五十三次)になった。

 それでは、各駅停車の列車に乗り込みましょう。

 【仙台駅】
 明治二十年開業。東北地方最大のターミナル駅であり東北本線の所属駅である。仙山線・仙石線の発着があり、常磐線・仙台空港線が乗り入れている。また、第三セクターである阿武隈急行線の一部が、東北本線経由で乗り入れている。付け加えると、仙台駅は駅弁の種類が日本で一番多い駅とのことである。
 現在の新駅舎は昭和五十二年に竣工して部分供用を始めた。五年後の昭和五十七年に、新幹線の開業に伴い全面供用となった。平成十四年に選定された(東北の駅百選)に仙台駅も選ばれている。私は昭和四十七年から五十一年春まで多賀城に住んでいたが、実家の宇都宮に帰るときは、もちろん昔の駅からだが、特急(はつかり・ひばり)を利用していた。所要時間は二時間五十五分だったような記憶がある。
 東北本線上り列車の仙台駅始発は、六時三分になっている。冬は当然暗いうちに発車する。寒いホームで電車を待っていると、折り返し運転になる列車が五時五十五分に着いた。降りる客がいなくなると、さっそく乗りこんでボックス席に座った。車内は温まっている。この列車は四両編成で、福島駅で乗り換えをすることなく郡山まで行ける。四人掛けのボックス席は二人から三人が座り乗客は結構多い。昨夜の最終列車に乗り遅れたと思われる人も見受けられる。よくしゃべる青年が二人乗っていたが、どうもそのくちのようだ。駅を出るとすぐに仙台市交通局のバス車庫が見えたが場内は満車だ。まだ本格的営業に入っていないようだ。十七日まで降った雪は辺りには残っていない。
 【長町駅】
 明治二十七年に、仙台に本部を置く陸軍第二師団が、日清戦争の際に軍用停車場として臨時に設置したのが始まりで、明治二十九年に民間用の駅となった。平成十八年に今の橋上駅名なった。以前は、貨物を扱う長町操作場が路線と並行していた。この跡地が再開発されて、近代的な建物や施設が駅東にできた。市立仙台病院も竣工が近い。車窓からは、遠くに建っている高いマンションの灯りが、暗闇の中で算盤玉のように連なって見えている。仙台から乗車した、よくしゃべる青年のうち、一人が降りたので静かになった。
 【太子堂駅】
 平成十九年開業の新駅である。仙台市と都市再生機構がJRに請願してできた駅で、隣の長町駅とは一キロ弱の距離しかない。駅建設中の仮称は(南長町)だったが、近辺にある祠から名前を取って、(太子堂駅)となった。しかし肝心な太子堂は現存していない。長町と同じようなマンションの灯りが見える。算盤玉の建物がたくさんあって塾のようだ。この先で名取川を渡る。初めて仙台に来たときには、この川が市境かと思っていたが次の駅もまだ仙台市だった。かなり厳ついPC鉄筋コンクリート橋が架かっているが、名取川に似合わない。河には鉄橋がいい。だいいちコンクリート橋では汽車の唱歌にならない。(今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと)の部分が字余りになる。
 【南仙台駅】
 大正十三年に陸前中田駅として開業したが、昭和三十八年に 南仙台駅に改称した。駅から八百メートルほど先から名取市になる。着いた列車に乗らないで、ホームのベンチに座ったままの人がいたが、どういう人なのだろう?次の列車は二十分後の名取行になっている。
 【名取駅】
 明治二十一年に、増田駅として開業したが、昭和三十八年に名取駅と改称した。平成十九年に開通した(仙台空港アクセス線)の起点駅でもある。仙台空港まで十三分で到着する。西側にはサッポロビール園があり、何度か飲みにきた。ジンギスカンがうまい。札幌にあるサッポロビール園に比べると少し落ちるが、札幌のほうが勝るのは、北海道の気候が後押ししているからだろう。この駅は乗降客が多かった。
 【館腰駅】
 昭和六十年に、名取市南部の利便性を図って開設された。東北線五十三次の駅のなかで、二番目に新しい駅だ。仙台空港アクセス線ができるまでは、仙台空港駅という副駅名もあったらしい。滑走路の一番近いところまで一・二キロ、搭乗場所まで直線距離で四・三キロしかない。駅で降りる客は多かった。車窓の空の色が変わった。漆黒の暗闇から暗い群青色へと移行している。
 【岩沼駅】
 明治二十年開業。電車はまだ闇の中にあったが、近くの木々を認識できるようになってきた。日暮里起点の常磐線は、岩沼が終点になっている。しかし、実施には仙台駅まで乗り入れている。常磐線は津波の被害を受けて、岩沼から先は浜吉田駅までしか開通していない。駅南の阿武隈川沿いに、日本製紙の大きな工場があり、生産された紙製品の輸送に使う専用線が分岐している。ここは貨物駅でもある。
 昨年、駅から四キロくらい西にある(金蛇水神社)に出かけた。市民バスが日に数本出ているようだが、列車の時間帯が合わず徒歩でいった。蛇の模様が入った石が、境内にたくさん並んでいた。主祭神として金蛇大神(水速女命)を祀っている。境内社として、水神である金蛇弁財天も祀られていて、何となく、お金持ちになれそうな気持になれる神社だ。
 駅に戻りその足で(竹駒神社)まで行ってみた。距離にして一キロくらい南にある。境内は広く、とにかく立派なお稲荷さんだ。倉稲魂神(うかのみたま・稲荷神)が主祭神で、衣食住を守護する神々として崇敬されている。社殿の南側に境内社として、北野神社・秋葉神社・出雲神社・総社宮・八幡神社・愛宕神社がある。神社オールキャストだ。
 社伝では八百四十二年に、小野篁(おののたかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられている。実は私、小野篁には、少年時代を過ごした足利で何度もお会いしていたのだ。足利学校の孔子廟の中で、孔子像の脇に同じ木像で座っておられる。日本最古の学校である足利学校は、八百三十二年に小野篁が創設したのだ。ここで小野篁の名を聞いて驚くとは‥‥、何たる無学なことか。初めて来た神社だが懐かしさを覚えた。金蛇水神社で金運を頂き、さらに竹駒神社で衣食住を約束頂ければ、これからは最良の人生が来るだろう。ありがたい参拝をしたものだ。
 【槻木駅】
 明治二十四年開業。(つきのき)なかなか読めない駅名だ。今日の空は曇り、乾いた透明な空気はない。夜明けの光によって移り変わってゆく、色彩に富んだ冬の空は見られなかった。それでも遠くが認識できる明るさになり周囲の山が浮き出してきた。早朝を実感する。日の当たる田圃の雪はなくなっているが、畦道の脇は雪が道に沿って線状に続いている。白で描いた大きな餅網だ。日陰は一面に雪が残っている。福島からくる阿武隈急行線の終点で、乗り入れ接続駅となっている。
 阿武隈急行線は、昭和四十三年に開業した(丸森線)と呼ばれた国鉄の路線を、昭和六十一年に第三セクターの阿武隈急行株式会社が引き継ぎ、昭和六十三年に福島まで延伸させた路線だ。槻木駅はJRと阿武隈急行の共同使用駅になっている。阿武隈急行線は白石川を橋梁で渡ってから、立体交差でJRの上り線をまたいで、分岐して福島へと続く。
 以前に福島から阿武隈急行に乗って仙台まで帰ったことがある。JRで帰れば一時間三十分位で料金は千三百二十円だが、阿武隈急行にすると、乗り換えはあるし時間もかかるし、料金も六十円ほど高くなる。JRで福島からWキップを使うと、仙台まで片道七百七十円で済むので、六百十円も高いことになる。それでも乗ってみると、二両編成の電車は趣があるし、車内は空いて快適だし、阿武隈川に沿った良い景色が見られた。丸森町に入ってからの(あぶくま駅)あたりの風景は特に印象に残った。友人にも勧めたが、馬鹿にして誰も乗っていない。
 【船岡駅】
 昭和四年開業。構内には石川啄木の歌碑と、東北本線電化の黎明期を支えた電気機関車が保存されている。駅前に(ホテル原田inさくら)と書かれた深緋色の建物が見えた。この地で原田といえば、すぐに思い出すのが山本周五郎の書いた(樅の木は残った)である。原田甲斐に繋がる一族郎党は死罪になっているので、全く無関係の原田さんが経営しているのだろう。
 船岡駅は、(伊達騒動の中心的存在であった原田甲斐の居城・船岡城を模して建設された駅)として、東北の駅百選に選ばれている。ここまで来ると車内は空席が目立ち、四人掛けボックスは、たいてい一人しかいない。靴を脱いで前の椅子に足を投げ出せば、まるでグリーン車だ。近くの電線にはカラスの集団がとまっている。鳥たちにも朝が来たのだ。
 走り出すと左手にある山の中腹に、大河ドラマ(昭和四十五年の樅ノ木は残った)で一躍有名になった樅の木が見える。山の上には二十四メートルもある船岡平和観音像が建っている。胸に鳩を抱いている観音像はめずらしい。右側は白石川の堤防が続き、(一目千本桜)と呼ばれる桜並木が延長八・五キロにもわたって続く。一昨年桜見物に来たが、(日本さくら名所百選)に選ばれるだけあって圧巻された。休日に仙台から乗った電車は、仙台駅ですでに満員となり、他の駅では乗れない状況だった。その時は大河原駅で降りて船岡駅まで、桜の咲く土手の道を歩いた。堤に沿った川の流れは緩やかで、酒も手伝ってか滝廉太郎作曲の(春のうららの隅田川)を唄いたくなってくるが、白石川だと、これまた少し字余りで歌いにくい。蔵王おろしの寒風が吹く今、車窓から見える冬の桜並木は寂しく小枝を震わせている。
 【大河原駅】
 明治二十年開業。駅の二番線は中線になっていて、駅止まりの列車や貨物列車の待避に使っているようだ。関西本線にも同名の大河原駅があるので、ここの乗車券は(北・大河原)と刷られている。船岡から白石川に沿って結構カーブが多く、蔵王の山が右に見えたり左に見えたりする。天気が良いと蔵王連峰の素晴らしい風景が見られる。乗降客は比較的多い駅だ。
 【北白川駅】
 減ってきていた線路周辺の残雪が増えてきた。空は曇っていて蔵王山頂の雪が輝くことはなかった。北白川駅は明治四十三年に開業した津田信号場が翌年駅に昇格した。信号場(しんごうじょう)とは、鉄道路線の中で分岐器や信号設備が設けられているところで、運転扱いは行うが、旅客や貨物取扱をしない停車場のことである。列車の行き違いの待ち合わせや、後続列車の通過待ちを行うために使用される。利用客が見込めないこと、用地が不足することなどのより、旅客の乗降駅にはならない停車場である。
 【東白石駅】
 元は信号所であったが、昭和三十六年に駅として開業した。当初は普通列車の一部だけが停まる駅だったが、今はすべてが停まっている。ここが東北本線かと思うような駅で、跨線橋もなくホーム先端の構内踏切をわたる。客の乗り降りはなかった。全く何もない駅だ。しかし景色は良く、駅の西側に白石川が悠々と流れている。今が一年の中で一番良い光景はなのだろう。ハクチョウやカモが群れている。いくつかの群れに分かれているハクチョウは、それぞれが親類一同なのだろうか?川岸には朝早くから数名の撮影マニアが望遠レズを構えている。車内からの見通しはドアが一番良かったので、ドアのガラス越しに水鳥を撮影したが、満足の行く写真にはならなかった。船岡から線路と並んで流れていた白石川とはここで別れとなる。その後は蔵王が主役だ。くっきりと見えてくる。稜線が黒い線になり、山の数や形が分かりやすくなっている。東の雲の切れ間から光が射して、少しではあったが輝きを見せてくれた。
 【白石】
 明治二十年開業。(徳川幕府の一国一城令から免れた白石城への最寄り駅)として、東北の駅百選に選定されている。伊達政宗の側近、片倉小十郎が城主だった白石城が見える。駅構内では明治二十年の開業当時から残っている赤レンガ作りの油庫を、鉄道関連グッズの展示館として利用している。これと同じ赤煉瓦の小屋は、東北本線のいくつかの駅にまだ残っていて、ほぼ同じ形をしている。油庫は、車両の室内灯や信号灯のために使ったランプ油を貯蔵した倉庫で、ランプ小屋とも呼ばれた。蒸気機関車時代に旧国鉄が主要な駅の敷地内にレンガで作った。今でも小屋が残っている駅では、灯油を貯蔵しているようで、貯蔵している危険物の数量などが明示されている。
 白石には近郷から多くの学生が通学してくる。ここで学生が降りると車内はガラガラになって、全車両すべてグリーン席だ。寝ころんでもだいじょうぶ。後の席から、いびきが聞こえてきた。この駅の乗車券は(北・白石)と刷られて発券される。(北)」は東北本線の略号で、他にあと二つの白石駅(北海道函館本線の白石駅と、肥薩線の白石駅)がある。電車が駅を出ると左側から新幹線が顔を出す。あたりの残雪はさらに増し、水田一面が真っ白になっている。列車から見える家の屋根にも雪がある。ここから福島に向かって雪深い峠になる。
 【越河駅】
 明治二十四年開業。(こすごう)これまた読みにくい駅名だ。乗り降りはほとんどない。この先で福島県に入る。無人駅なのに駅舎は比較的大きく、ホームはかなり長い。建物の右側は駅舎ではなく、仙台保線技術センターの詰所になっている。東北本線に古くからある駅には、どこの構内にも長いホームが残っている。蒸気機関車時代のホームなので高さが低い。かつて機関車が、長い客車を牽引していた時代の歴史が残っているのだ。
 【貝田駅】
 大正十一年に開業した貝田信号場が、昭和二十七年に貝田駅に昇格した。地名を考えると、昔、開墾して水田を作った時に貝塚でも出たのだろうか?この駅も周りに何もない。ガソリンスタンドだけが目立つ。貝田駅を過ぎ、峠を越えた列車は緩い坂を下ってゆくのだが、このとき福島盆地が一望できるのだ。福島盆地は、旧信夫郡と旧伊達郡にまたがる平地であることから、信達平野とも呼ばれている。この景色が好きで、いつも楽しみにしている。貝田駅から藤田駅までの山腹を走る車窓は、仙台から宇都宮までの景色の中で一番素晴らしい。
 阿武隈山地の上にある雲間に太陽があるようだ。そこだけ明るくなっている。線路の付近は、雪の絨毯の中に桃の木が立っている。
 春に乗車した時は女性が車掌をしていた。
「左の窓をご覧ください。見事な桃の花が斜面いっぱいに咲いています」
そんな車内放送がながれた。こんな時は女性のアナウンスがよい。列車は平地に向かい、ゆっくりと速度を増してゆく。道路の温度計がマイナス三度を示していた。
 【藤田駅】
 明治三十三年開業。福島に向かう客で車内はいっぱいになってくる。ここからはグリーン席がなくなってしまうのだ。駅付近はきれいに造成された住宅が並んでいる。福島のベッドタウンになっているようだ。ここは福島市ではなく国見町だが、藤田から福島までは十六分と意外に近い。
 【桑折駅】(こおり)読みにくい駅名ランキングにはいる。明治二十年、伊達郡の駅の中では最も早く開業した。空はまだらに青空がのぞき幾層もの雲がある。高いところの雲は白く、低いところの千切れ雲は東側が薄紅色になっている。普通のサラリーマンは土曜日の休日が定着してきたのだろうか?学生だけが載ってきた。社内はさらに混んでくる。ここは、駅名のとおり桑折町にあり、赤レンガのランプ小屋が残っている。
 【伊達駅】
 明治二十八年の開業時は(長岡駅)の名称だったが、信越本線長岡駅との重複を避けるため、大正十三年に、郡名から駅名を取って(伊達駅)と改称した。その後、所在地だった長岡村も伊達町に変わり、現在は伊達市になっている。(木造武家造の駅舎を有する駅)として、東北の駅百選に選定されている。乗客が乗りこんでくると、車内が急に寒くなった。列車待ちで体の冷え切った人が多く入ってきたからだろう。学生は、ほとんど全員が無口でスマホを操作している。伊達駅にも蒸気機関車時代の油倉庫があった。この先七百メートル先で福島市にはいる。
 【東福島駅】
 大正十二年に(瀬上駅)として開業したが、昭和五十三年に(東福島駅)に改名された。貨物駅なのたが、貨車の発着が廃止され自動車代行駅となっている。 東福島オフレールステーションというらしい。雲の切れ間に青空が見えて太陽が輝くと、磐梯山の雪が赤く光った。天気は回復してくるのだろうか?屋根の雪と地面に積もった雪景色はまだ続いている。
 【福島駅】
 明治二十年開業。今の東口駅舎は昭和三十七年にできた。駅前広場から玄関口を見ると昭和の風が吹いている。昭和五十七年には新幹線駅が開業して西口駅舎ができた。(賑やかな駅前通り、官公庁が立ち並ぶ県庁通りに続く県都の玄関口の駅)として、東北の駅百選に選ばれている。福島駅は、奥羽本線の起点になっていて、遠く秋田から弘前を経由して青森に向かって分岐している。山形新幹線の分岐駅でもある。奥羽本線は新幹線と同じ軌道幅に変えているために、東北本線から直通運転はできない。また、阿武隈急行線著と、飯坂線が出ているが、JRとは別の駅になっている。
 信夫(しのぶ)山が見えたら福島だ。突然車内に光が射した。窓を見ると、遠くの山々に斜光が射して美しく輝いる。稜線にある木々の雪は風で飛ばされて、裸になった黒茶色に山の形を描きだしている。駅に着くとほとんどの乗客が降りて、四人掛けボックスの席は、あちこちに空きができた。またもやグリーン席ができたのだ。七分間停車の後、七時三十五分の発車だ。古関裕而が作曲した(高原列車は行く)のメロディーに送られて列車は動き始めた。先ず(荒川)を渡る。この名称の河川は全国あちこちにある。荒川はその名前の通り(暴れ川)であり、この名称の付いた川が流れている地区は昔から洪水や水害で苦労をしてきたのだろう。
 【南福島駅】
 大正五年にできた永井川信号所が昭和三十七年に南福島駅に昇格した。東北本線の駅としては新しい駅に入る。屋根の雪は少し残っているが地面の雪はない。学生が多く乗り込んできた。先の金谷川にある福島大学か、二本松にある高等学校に行くのだろう。一駅にしてグリーン席はなくなった。駅を出ると左はすぐに林が続き、右には遠く磐梯山の吾妻富士が見える。この辺の景色も素晴らしいものだ。上り下り線が並行しておらず、かなり離れて走っているのも特徴だ。一番離れているところで七百メートルもある。複線化をするとき土地が買収できなかったのだろうか?このあたりが複線化されたのは昭和三十六年である。今走っている上り線が後からできた線路になる。
 【金谷川駅】
 明治四十二年開業。昭和五十四年に福島大学が移転してきた。ホームの駅名標は福島大学の写真になっている。高台には校舎が見える。駅に着いて目にする建物は、ほとんどがアパートだ。周辺には大きな店がないので、買出しのために電車を利用する学生も多いのだろう。やはりここでは多くの乗客が降りた。金谷川から松川間も上り下り線が並行しておらず、最大で五百メートル離れて走っている。
 【松川駅】
 明治二十年開業。今では風化してしまったが、(松川事件)で有名な駅だ。事件は昭和二十四年に国鉄東北本線で起きた。汽車の転覆事件で乗務員三名が死亡している。戦後の(国鉄三大ミステーリー事件)の一つにあげられている。ほかの二つは、下山事件と三鷹事件である。容疑者が逮捕されたが、その後反転して全員が無罪となり、結局未解決事件となった。
 転覆地点のレール一本が外されていて、周辺の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。捜査当局は、大量人員整理に反対していた東芝松川工場の労働組合と、国鉄労働組合の共同犯行との見込みを付けた。その結果、元国鉄線路工の少年を逮捕した。少年は犯行を自供し、自供から共犯者が検挙された。逮捕者は東芝労組員と国労員で、総勢二十名に及んだ。昭和二十五年の福島地裁の一審では全員有罪だったが、昭和三十八年に最高裁は検察側の再上告を棄却して、被告全員が無罪となった。今のように労働組合がほとんど機能していない時代とは大きく違い、戦後の混沌とした時代を感じさせる事件だ。苦しい生活を強いられていた労働者の団結力が、今ある日本の繁栄を作ってきた。
 松川駅の手前で左側に大きな工場が見える。北芝電機と書かれている。これが昔の東芝松川工場である。北芝電機の工場へ続く専用線が駅に接続している。事件当時の記憶を残す従業員は一人も残っていないだろう。閑散とした駅前は、静かに無言の時が流れ、赤レンガのランプ小屋がすべてを見つめていた。
 駅前の駐車場で面白い看板を見つけた。駐車料金に関する記載だが、
(一時間百円・一日五百円・二十五日分の駐車料金一万二千五百円が、プリカだと四千円で八千五百円お得)
と書いてある。最後の記載部分は、要するに一ヶ月の駐車料金だと思うのだが、とんでもなく安く感じるから不思議だ。こんな書き方には、始めてお目にかかった。突然、後部座席からまたいびきが聞こえた。何と鼾男爵はまだ乗っていたのだ。右の車窓には安達太良の山がある。
 【安達駅】
 大正六年開業。水田の雪はめっぽう減っている。昔からあるような材木店と安達焼と書かれた工房がみえる。後日、安達焼を調べて見たら、(良質の陶土を用いて造られる安達焼は、火の芸術と言われる窖窯により、松薪で七日間焼成するのが特徴です)と記載があった。ここはもう二本松市である。
 【二本松駅】
 明治二十年開業。以前は一部の特急電車が止まった駅で、乗降客は多く、学生のほとんどが降りた。(丹羽十万石の城下町にふさわしく、二本松城を型取った駅舎)として、東北の駅百選に選定されている。民家の屋根に雪は見当たらない。
 提灯祭りは有名だが、二本松と言えば菊人形である。秋になると駅にも菊人形が展示される。昭和初期から菊人形が街に飾られていたが、昭和三十年から霞ヶ城公園を会場にして(菊の祭典)として展示が始まり、今年が六十回目だった。一般財団法人二本松菊栄会という団体が仕切っているようだ。二本松には富士山が見える北限の山かがある。日山(富士山から二百九十九キロ)である。南限を調べてみると、和歌山県の妙法山(富士山から三百二十二キロ)とのことだった。二本松から見えるのだから、さすがに富士山は高い。今は近くの安達太良山さえ雲に隠れて見えない。
 【杉田駅】
 昭和二十三年に旧杉田信号所から昇格した駅だ。京浜急行電鉄本線に同じ名称の駅があるのだが、JRの駅ではないので切符に(北)の文字は付かないようだ。乗降客はなかった。東側はすぐに水田が広がっている。この付近に先輩の実家があって、三十年ほど昔(姫小松)という名の旅館で酒を飲んだことがあった。注意して見ていたら今も看板が掛っている。きっと代替わりをしているのだろうが、懐かしく通り過ぎた。
 【本宮駅】
 明治二十年開業。富山県の富山地方鉄道立山線に同じ名称の駅があるが、立山線の方は本宮(ほんぐう)という。野口英世も上京(医術開業受験)するき、猪苗代から馬車で本宮まで来た。
 昭和四十七年の夏、仙台から宇都宮まで各駅停車に乗ったことがあった。午後一時ころに仙台を出たのだが、宇都宮には夜の九時頃に着いた記憶がある。当時の各駅停車は、急行やら特急やら貨物やらと、やたらに通過列車を待って長い時間、平気で停車する。その時本宮の駅で二十分近く停まっていた。車内の扇風機は熱風を拡散させるだけで、窓からも熱い風が入ってくる。とにかく走っていないと暑いのだ。汗をかきながら近くにある造り酒屋の、赤いレンガ煙突を見ていた。その風景がアブラゼミの声と一緒に今も強く記憶に残っている。この煙突が今でもあるのだ。今もここで仕込みをしているのだろうか?(大天狗酒造)という。福島県の二本松・本宮地区と会津地区は造り酒屋が多い。東北本線から見える山の中腹には、酒の大看板があちこちに建っている。よく見かける(大七)の文字は、二本松の銘柄だ。この地方は米と水が良いのだ。
 【五百川駅】
 昭和二十三年開業。水田の中にある駅だ。遠くから学生が走ってくるのが見える。それほど見通しが良い。
 五百川には伝説がある。磐梯熱海温泉に関する(萩姫伝説)である。
 南北朝時代に伊豆地方を領した万里小路重房の一人娘(萩姫)が、病の床に伏していた。その枕元に不動明王が現れ、
「都の東北方、数えて5百本目の川岸に霊泉あり。それに浸かれば全快する」
と告げて去っていった。萩姫はその言葉に従って東北へと向かい、困難の末、遂に都から五百本目の川に辿り着き、そこ涌く温泉に浸かったところ、たちまち病が回復した。萩姫は、この湯に深く感謝して、その川を(五百川)、そこに湧く温泉には故郷の伊豆地方の地名をとって(熱海)と名づけたという。素晴らしい伝説が伝わるが、とにかく駅付近には何もない。離れてアサヒビールの大きな工場が見える。駅名の読み方なのだが、(ごひゃくがわ)と呼ばれているが本当は(ようがわ)が正しい読み方だそうだ。駅を出ると左側には広い農業総合センターの農場が続く。
 【日和田駅】
 明治三十年開業。遠くに観覧車が見える。ショッピングモールの広告塔なっているようだ。近くに高等学校があるようで学生が乗車してきた。乗客の一人(どうも教員と思われる女史)が前の席に座り書類を作り始めた。今どき手書きで作っているので、珍しいなと思って見たら字がうまい。字が上手い人は確かに書いた方が早いのだ。自分にはとても無理だなと思いながら見ていると、金太郎の絵が描かれた電気機関車が長い貨物を引いて通り過ぎて行った。駅の跨線橋は、古いレールを加工した作りになっている。郡山駅の手前で磐越東線と磐越西線が入ってくる。磐越東線には何度か乗ったが、夏井渓谷あたりの景色は素晴らしかった。
 【郡山駅】
 明治二十年開業。(機能的かつ都会的な美しい駅前広場)として、東北の駅百選に認定されている。郡山駅の東側は、保土谷化学の工場が続いて他には何も見えない。工場手前の構内は相当に広く、数多い線路にディーゼル機関車がたくさん停まっている。西側の一番線には磐越西線の列車が折り返しの発車を待っていた。車輪には雪が固まって付いている。会津から越後に抜ける路線だけあって雪深いところを走ってきたのだ。列車が発車した後の線路にも雪がたくさん落ちていた。毎年このホームだけは春が来るのが遅い。
 八時二十三分に到着したが、次に発車する黒磯行きは九時六分までない。待ち時間が四十七分もあるのだ。各ホームは地下道と跨線橋の二つの通路でつながっている。地下道を使って改札を出て途中下車した。時間つぶしに入るわけだが、駅舎のトイレに行くと、この時間帯はたいてい清掃中になっている。ホーム内にあるトイレは一番線ホームにしかない。実はこのトイレが一番良いのだ。新しいトイレで、ウォシュレットが付いていてきれいだ。女性用は知らないが、男性用は大便器が二つしかなく、いつも混んでいるという問題点もある。急ぎの時は、停車中の列車を利用する方法もある。列車には必ずトイレの付いた車両があるのだ。
 途中下車をしても時刻が早いので、利用できる店は限定されてくるのだが、お茶を飲む程度なら事欠かない。考えて見れば、ちょうど良い小休止なのかもしれない。黒磯行きは発車時刻の十五分前には入線するので早めにホームに戻った。到着した四両編の車内は暖かい。どの列車の扉も自動では開かず、入り口についている大きなボタンを押して開ける。中に入ったらすぐにすぐにボタンを押して閉める。車内が冷えないための開閉方法なのだ。地元の人は当然知っていて閉めるのだが、南の方から来た人はドアを開けたままにしている。すると必ず誰かが行って閉める。
 先に出た黒磯行きは七時四十三分発なので、今度の発車まで一時間二十三分も間隔があいている。それも手伝ってか、列車待ちの乗客は多くなり車内は混んでいる。四人掛けボックス席は二人から三人がかけていた。発車後、郡山総合車両センターの端まで約二キロの間、広い線路敷が続いく。車両センターの仕事は、車両全般の検査・要部検査・改造作業・廃車解体である。広い作業ヤードの最端部に木造の長い建物がある。側面に1920年と書いた看板をいくつも掲げている。当センターの起こりは、明治三十一年(1898)に岩越鉄道(岩城の国と越後の国)の郡山機関庫として設置されたのが始まりで、明治四十八年(1910)には若松機関庫郡山分庫と改称されていた。このころからある建物なのだろう。見るからに古い。郡山機関区と改称されたのは、昭和十一年(1936)になってからだった。
 【安積永盛駅】
 明治四十二年、笹川駅として開業。昭和六年、成田線に笹川駅が開業するので、安積永盛駅に改称した。列車はまだ雪が残っている農地の中を走る。阿武隈川が左側の車窓に続く。流路延長、二百三十九キロある阿武隈川の長旅は、那須の三本槍岳の北にある甲子旭岳に源を発する。海に注ぐには、どこかで阿武隈山地を越えてなくてはならない。そのため仙台平野まで北上して、岩沼と亘理の間で海に出る。東北線から見える阿武隈川の色は、どこの場所も深緑色に見える。
 水群線の終点駅にもなっている。安積永盛駅の先一・五キロあたりで分岐して水戸まで続く。昨年、水群線を利用して帰省してみたが、郡山から水戸まで三時間二十分を要した。水戸までの距離は百四十キロ弱ある。単線のためにあちこちの駅で列車の待ち合わせがある。その分時間が掛る。
 「今日は水群線で水戸を回って帰ってきたよ」
というと、
「そんなに時間をかけて、馬鹿じゃないの」
と、みんなはいう。しかし、水田地帯と山間を走る二両編成のディーゼルカーは、なかなかのものである。矢祭町の滝ノ沢温泉を過ぎると、久慈川が車窓を楽しませてくれる。走る距離を所要時間で割ると平均時速四十二キロになる。決して遅い速度ではない。
 安積(あさか)と聞くと、農業・土木関係者は、安積疎水を思い起こす。猪苗代湖から引いた疎水は荒涼とした安積原野を豊かな穀倉地帯に変えた。仙台から宇都宮の間には、日本三大疎水のうち二本の疎水がある。もう一つは那須疎水である。三大疎水の残り一つは琵琶湖疏水である。
 【須賀川駅】
 明治二十年開業。郡山から乗った乗客の多くがここで降りた。駅には(M78星雲の姉妹都市)と書かれている。M78星雲はウルトラマンの生まれ故郷なのだが、なぜ須賀川が姉妹都市なのか最初は解らなかった。円谷プロダクション創設者(円谷英二)の故郷であることに起因しているようだ。(花の町を演出するステンドグラスが印象的な駅舎)として、東北の駅百選に選定されている。たしかに尖り屋根の付いたモダンな駅だ。ここから先に幾つかモダンな駅舎が続く。個人的には(M78星雲の姉妹都市として)の方がずっと素敵だ。
 【鏡石駅】
 明治四十四年開業。駅には唱歌(牧場の朝)の故郷と書かれている。この牧場のモデルは、明治天皇の指示により開墾された、日本で初めての西欧式牧場(岩瀬牧場)とのことだ。屋根の上にはとんがり帽子の鐘がある。ここもモダンな駅舎だ。今年の春に乗った時は、駅の東側ある桜並木がきれいな花を見せてくれた。今の桜は雪の中で春を待っている。この地区には雪がかなり残っている。
 【矢吹駅】
 明治二十年開業。またまたモダンな駅である。昔から言うと、鉄腕アトムの漫画に出てきそうな形をしていて、円形がうまくいかされている。正面から見ると目玉の大きいカニ型ロボットだ。福島県建築文化賞を受賞している。町内に御料地があったので、昔は駅に貴賓室もあったとのことだ。私の年代の男子は、矢吹と言えば(矢吹丈)を思い出す。ちばてつや作画の(あしたのジョー)は、昭和四十二年から四十八年まで少年マガジンに連載されていた。最終回のホセ・メンドーサとの試合後に描かれていた、真っ白なジョーの姿が忘れられない。
 ジョーにはモデルになった選手がいたとのことだ。斉藤清作選手がその人で、仙台生まれで第十三代全日本フライ級チャンピオンになった。ボクシングを引退した後、(たこ八郎)の芸名で喜劇役者になり、みんなを笑わせてくれたが、四十四歳の若さでこの世を去った。駅の周りは一面に雪景色になっているが、道路の部分はあちこちで、黒い舗装が見えだしている。
 【泉崎駅】
 明治二十九年開業。駅の東は水田で西はすぐに山になっている。東の水田の先は高台になっていて、天王台団地という造成地がある。駅からは歩いて五分位の場所である。団地から駅に向かって立派な橋が架かっているのだが、橋の先は畦道になっている。何とも奇妙な道だ。団地の人たちの通勤考えると、家は駅から近いが列車の運転本数が少ないので、意外に不便だと思うのだが‥‥。
 (ゆったり通勤奨励金制度)というものがある。天王台ニュータウンの土地を、平成十六年七日以降に三百平方メートル(約九十坪)以上を購入・住宅を建築して居住・村外に鉄道を利用して通勤する人が対象になるようだ。
奨励金として、鉄道の定期券代を三年間全額、もしくは現金三百万円が交付される。残念なことに今年の九月に制度が終わったようだ。ホームの脇にある枯れ木が(バルタン星人)の形をしている。須賀川市を監視しているかのようだ。この先バルタン星人は、あと何年残っていられるだろうか?
 【久田野駅】
 大正八年開業。・昭和五十九年に、駅が 無人化された時に立て替えられた小さな駅舎がある。ここも東は水田、西はすぐ山になっている。駅東には鉄道に隣接した駐車増がある。ここまで自家用車で来て通勤している人が多いようだ。ほとんどは隣の白河駅に行くのだろう。白河から帰りの最終列車(二十二時二十六分・福島行)に乗り遅れると、余計なお世話だろうが、タクシー料金が三千円近く掛ってしまう。駅から見える那須連山はきれいだ。
 【白河駅】
 明治二十年開業。まず目に付くのが駅西側にある(小峰城)である。戊辰戦争で大半は焼失したが、総石垣造りの城を平成に入ってから復元した。盛岡城・若松城とともに東北三名城のひとつになっている。震災で崩壊した石垣・三重櫓・本丸の修復工事が最終段階をむかえている。駅を通過するたびに工事の進捗を見ていた。白河駅は、(ステンドグラスのある赤瓦の屋根の大正ロマン漂う駅舎)として、東北の駅百選に選定されている。私が学生の頃は大した賑わいの駅で、駅弁売りも出ていた。東北本線の主要駅であったが、新幹線開業後は閑散としたローカル駅になっている。ホームの屋根を支える木柱のトラスが駅の歴史を今に残している。ホームから見渡す限りNTT以外に高い建物はない。駅東にはイベント広場と近代的な図書館が立っている。
 白河ラーメンとよばれるご当地ラーメンがある。クラシックなスタイルのラーメンで、醤油ベース・豚骨・鶏ガラスープで、麺は幅広縮れ麺を使っている。木の棒で麺を打ち、包丁で切り出してから手で揉んで縮れをつけるらしい。具は、ネギ・チャーシュー・メンマ・鳴門巻き、ホウレンソウなどで、私の記憶の中にある(支那そば)である。栃木県の佐野ラーメンも同じような製法で、青竹(麺を打つ恰好が違う)で打つ。白河ラーメンと同様に地味だがうまい。
 【新白河駅】
 西郷村と白河市の境界部に建っている。新幹線の中で、村に所在する新幹線停車駅は、日本中でここだけらしい。昭和十九年にできた磐城西郷信号場が、昭和三十四年に 駅に昇格して磐城西郷駅(いわきにしごうえき)として開業した。その後、昭和五十七年に 東北新幹線が開業したとき、新白河駅に改称された。ホームからはビジネスホテルが目立つ。乗降客は白河駅よりは当然多い。以前、この駅で新幹線に乗りかえた時、駅構内に白河ラーメンの店が出ていた。もちろん食べた。このあたりは雪が一面に残っていて屋根の上にも雪がある。
 【白坂駅】
 大正六年開業。この駅も含めて、ここから北は仙台支社管轄となり、この駅から南にある駅は大宮支社管轄になる。周囲を見ると、山村の駅に来た感がある。通勤客は東側にある駐車場を利用しているようで、前に通った時にも同じ車を見た。緑色の車体に白い唐草模様が描かれている車だ。(東京ぼん太)のトレードマークである。駐車場には、いつも唐草模様の風呂敷が置かれている。この先で二・五キロくらいのところで、栃木県に入る。県境には黒川鉄橋がある。この鉄橋からの景色も素晴らしい。高い位置から山間の水田が見渡せる。特に左側の眺めはすばらしく、両側の山の間に延びる水田と黒川が絶景を作り出している。残念な事に、あっという間に通り過ぎてしまう。
 【豊原駅】
 関東地方最北端の駅で完全に山の駅だ。周囲に家はなく、乗降客もない。以前下り線に乗った時、一度だけ降りた人を見かけたが、駅を清掃するために黒磯駅から乗ってきた女性だった。
 これほど何もない駅でも歴史は古い。明治二十年に黒磯駅から郡山駅まで開通したとき駅は開業した。明治四十年、樺太で同名の豊原駅(ユジノサハリンスク駅)が開業、大正九年に台湾の葫蘆?(とろこん)駅も和風地名の豊原駅と改称したので、同名駅が複数あるという状況が続いていた。大正十四年に、この駅は下野豊原駅(しもずけとよはらえき)に改称された。戦争が終結して領土が無くなったせいなのだろうが、昭和二十三年に再び豊原駅に戻された。今の駅は寒風を受けて寂しくたたずんでいる。周囲の松林やクヌギ林の山肌は白い。山肌をよく見ると、木の周りは雪が解けていて穴になっている。樹木にも体温のようなものがあるのだろうか?
 【黒田原駅】
 明治二十四年開業。大宮支社管内の有人駅としては最も北に位置している。現在は黒田原が那須町の中心になっているが、東北本線の駅ができてから発達した新しい集落である。駅前には地方銀行が支店を出している。この地方における江戸時代の中心地は、奥州街道の宿場町だった芦野にあったが、鉄道路線からはずれ衰退した。栃木県にはこのような町が結構多い。烏山町・大田原市などがそれにあたる。いずれの町も後になって、東北本線から支線としての鉄路を結んだが発展は止まってしまった。
 構内にはレールを加工して作った跨線橋が今もある。いずれのレールにも制作年度と製鉄所名が記されている。古いレールのほとんどは、明治時代の外国製である。駅から一キロくらい行った左側に(余笹川ふれあいゾーン)と呼ばれる施設がある。夏には子供連れでにぎわっていたが、さすがに今は閑散としている。付近の道路に雪は全く残っていない。
 【高久駅】
 大正三年に高久信号場として開設され、昭和三十九年に 高久駅に昇格した。信号場時代から仮乗降場として旅客扱いをしていて、駅に昇格する前から乗車券を発売していたようだ。駅の周囲には何もないが、昭和中期のものだろう‥‥、酒・食料品・雑貨を扱ったスーパーの店舗が戸閉になって残っている。家の近くに商店がなくても、生活用品を車で調達に行く時代となり、不自由なく暮らしているのだろう。黒磯までの車窓には静かな林が続く。ところどころに顔を見せる水田に雪はない。那珂川の鉄橋を渡ると黒磯駅に着く。十時七分に交流電源の旅は終わりをつげ、直流電源の旅が始まる。
 【黒磯駅】
 明治十九年開業。東北からの終点駅である。降りた乗客の半数以上は、一番線から上り線に乗り換える。改札口も一番線なので全員が跨線橋に殺到して、ほんの数分ではあるが通路は混雑する。上り列車は宇都宮行が十時十五分に発車する。八分の待ち合わせである。すでに止まっている四両編成の列車は結構混んでいたが、乗り換えの乗客はほとんどが座れた。車内の席は左右二列の椅子で旅行気分はかなり薄れる。
 東北本線は黒磯駅構内で直流と交流を切り替える。両電流は電化方式が異なるので、走行する電車も別々の構造になっている。寝台特急や一部の臨時優等列車と貨物は、直交流どちらでも走れる機能を装備しているので、通して運転できるが、東北本線の普通列車は運転系統が分断されているので、黒磯駅で必ず乗り換えなければならない。駅から先の直流区間には、(宇都宮線)の運行名がついていて発着本数が多い。五両編成の列車が二十分から三十分間隔で運転されている。しかし、黒磯駅から発車する列車は、ほとんどが宇都宮駅乗換えになっている。宇都宮から先は、十両から十五両編成の長い列車が走る。黒磯駅以北は、二両から四両編成の列車が毎時一往復しかない。
 東北本線以外の、主な直流と交流の分岐場所は、常磐線が取手と藤代間・水戸線が小山と小田林間・羽越本線が村上と間島間になっている。
 那須には御用邸があるために、黒磯駅から(お召し列車)が発着していた。一般の入口の脇に皇室専用の出入口や待合室がある。昭和天皇崩御後は、新幹線の那須塩原駅を利用するようになり、ほとんど使われていない。
 新幹線の開業は黒磯駅を大きく変えてしまった。特に大きく変わったのは駅弁かもしれない。列車の動力が電気になってから、機関車の付け替え作業が生じたために、黒磯駅の停車時間は長かった。その頃の駅弁は、宇都宮か白河でしか買えなかったので、高木弁当と九尾弁当本舗が昭和三十二年に黒磯駅で営業を始めた。昭和五十五年以降、特急列車は直交流のどちらでも走れる列車に順次変わり、停車本数は減っていった。その分、追い越し列車の通過待ちをする列車は停車時間が長くなり、駅弁利用者はさほど減少しなかった。私の記憶の中では、高木弁当が(幕の内弁当)、九尾弁当が(九尾すし)だった。両社ともほかに幾種類もの弁当を販売していた。
 黒磯駅の駅弁は、デパートの駅弁大会でも人気があった。子供の頃、父が土産に九尾すしを買ってきてくれると大喜びをしたものだ。変わった寿司で、稲荷寿司と握り寿司が入っているのだが、にぎりのネタに焼豚とチーズも入っていた。長年二社が、製造・販売してきた駅弁であったが、新幹線の開業と特急列車の廃止などにより駅弁の売り上げが減少し、最後まで残った九尾弁当も平成十六年に販売を終了した。
 【那須塩原駅】
 明治三十二年、黒磯駅と西那須野駅の間に、急行も停まらない(東那須野駅)という小さな駅ができた。それが昭和五十七年、東北新幹線の開通時に大出世をして、新幹線停車駅になったのだ。ここでの乗降客は多い。ただし、新幹線の発着の時だけである。那須高原に住居を構えて、ここから東京まで新幹線通勤をしている人はいがいに多い。上野までの所要時間は一時間で、朝の七時台には四本の列車が出ている
 駅から三キロくらい走ると、水の流れていない川(蛇尾川)がある。水量が少ないと伏流水として流れるため、冬の渇水期には川底の玉石だけが続く枯川になる。この地区は水の便が悪く開拓初期の苦労は大変なものだった。那須疎水が那須野ケ原に農業をもたらしたのだ。
 今日の蛇尾川は、夏に通過した時に流れていた水は消えて、那須岳から吹き降ろす風だけがながれていた。乾いた川には雪もない。
 【西那須野駅】
 明治十九年、那須駅として開業したが、明治二十四年に西那須野駅に改称した。乗車客が多くなり立ち席の人が出始めた。塩原温泉への連絡線として(塩原電車)が、大田原への連絡線として(東野鉄道)が西那須野駅から出ていたが、塩原電車は昭和十一年に、東野鉄道は昭和四十三年に廃線になっている。黒磯から脇を走っていた新幹線は、この先で離れてゆく。西那須野町は、黒磯市と塩原町と合併して那須塩原市になった。新しい市名が付いた駅は、黒磯と西那須野の中間なので、両町とも面目が保てたような気がする。
 【野崎駅】
 明治三十年開業。京都の片町線に同名の駅が存在するため、乗車券類には(北)の文字が付く。大田原市の飛び出した部分にあるので所在地は大田原市だが、すぐ脇を那須塩原市と矢板市に囲まれている。駅東には大田原農協の大きな倉庫があった。この先に(箒川)が流れている。私が矢板市に住んでいた昭和三十年代、子供たちはこの川まで泳ぎに来た。矢板から川までは四キロほどある。路線バスで川まで来るのだが小学生の運賃は五円か十円だった。竹ヤスと水中眼鏡で、スナサビ(シマドジョウ)・カジカ・ウグイ・アユなどを突いて遊んだ。箒側の右岸がバスの停留所になっていて、菓子類や飲み物を置いた小さな店があった。バスが走っていた国道四号線と東北本線の橋は並んでいる。学生の頃、実家に時帰省するときは懐かしく眺めていたのだが、今は建物すら残っていない。
 【矢板駅】
 明治十九年、宇都宮と西那須野間が開通した時に開業された駅である。駅名から何となく分かるように木材の産地で、戦後大量の木材を、復興を急ぐ東京へ積み出した。今も貨物駅になっていて、駅東には貨物ヤードがある。当時、駅から北に一つ目の踏切は、貨車の並べ替えが始まると長い間閉まったままになった。私の家は踏切から五十メートルほど北に行った所で、すぐ脇を東北本線が通過していた。汽車が通過すると、付近は石炭の匂いでいっぱいになった。昭和三十四年五月に、黒磯と宝積寺の間が直流電化された。同年七月に、黒磯と白河の間が交流電化されたが、その後も何年かは蒸気機関車も混在して走っていた。冬に青森から走ってくる客車の屋根には、十センチ以上もある雪が積もっていた。この頃はまだ汽車が主流で、電気機関車が来ると走って見たものだ。駅は当時のまま残っている。
 【片岡駅】
 明治三十年開業。駅のすぐ近くに旧国道四号線の踏切がある。古い四号線はここから矢板に向かい、本通りと呼ばれる矢板市内の道に続いている。昭和四十三年に矢板を迂回する矢板バイパスが開通してからは、交通量は極端に減った。片岡も矢板も閑散としてしまったのだ。それ以前は大きなトラックが歩道のない市内を通りぬけていたので危険であった。現在、駅では工事が進行中である。(片岡地区の賑わいの創出)という名目で、片岡地区市街地整備事業に着手している。自由通路・橋上駅舎・西口広場とアクセス道路の整備が進んでいる。駅の西側はツツジの木が植えられていて春は美しい。
 【蒲須坂駅】
 大正九年に蒲須坂信号場として開設され、大正十二年に蒲須坂駅に昇格した。駅の東側に小さな集落が見えるだけで、あとは水田である。水田の雪はすっかりなくなっていて、完全に冬の関東平野が広がっている。蒲須坂駅の西側には水田が広がり、その先には遠く日光連山・高原山・那須連峰がそびえたっている。この景色見た与謝野晶子が、美しさを絶賛したと聞いたが、あまり定かではない。
 【氏家駅】
 明治三十年に、宇都宮駅から矢板駅間の経路が変更されたときに開業した。その時に古田駅と久保駅はなくなった。東北本線は他所でも経路を変更している。大正九年に黒磯から黒田原間が変更になり黒田原駅が移転した。同年に黒田原から白坂間も経路を変更して豊原駅が移転している。氏家町は、かつて人車軌道で結ばれていた隣の喜連川町と合併して(さくら市)となった。この駅にも赤レンガのランプ小屋が残っている。
 【宝積寺駅】
 明治三十二年開業。烏山線の起点駅になっていて、ここから分岐して烏山へ向かう。烏山線のほとんどが宇都宮駅まで乗り入れている。駅舎は平成二十年に、ブルネル賞(鉄道デザインの国際デザインコンペティション)で建築部門の奨励賞を受賞している。宇都宮の特産品(大谷石)でできた古い倉庫を有効利用した施設も見える。
 昭和五十年頃に各地の駅名切符が流行った。国鉄広尾線の(愛国駅から幸福駅行き)の切符や、函館本線の(銭函駅)の入場券などである。その時、烏山線の(大金駅)入場券と(宝積寺駅から大金駅行き)の切符がブレークした。
 【岡本駅】
 明治三十年に開業した古い駅ではあるが、周りには何もない。岡本駅は宇都宮市にあるオマケの駅のような印象を持っていた。住宅だけがある駅だ。昔、電車基地を岡本に作る計画もあったようだが、基地は小金井にできた。岡本に電車基地があれば、上野方面から宇都宮まで来る列車は、今よりずっと多くなっていたはずだ。残念な事だ。昭和十六年に、貨物線として岡本駅から高崎製紙日光工場(王子マテリア日光工場)に専用線がひかれたが、今その廃線跡は遊歩道になっている。
 【宇都宮駅】
 十一時六分に到着した。所要時間は五時間三分。二百四十二キロの旅は終わった。郡山での長い待ち時間が三十分短ければ、四時間半くらいで着くのだ。学生時代と違って、特急・急行列車と、貨物列車の通過待ちがないので結構早くなるはずなのに、JRはまったくその辺を配慮しない。
 宇都宮駅は日光線の起点駅で、ここから分岐して日光へ向かう。東京から日光に行くには、東武鉄道が便利なので、遠回りになる日光線は寂れている。日光線の発着ホームには大正ロマンの香りがある。終点の日光駅は、大正元年にできた二階建ての駅で、そのままの形で現存している。ネオ・ルネサンス様式の木造洋風建築である。日光の田茂沢には大正天皇の御用邸があった。
 私が住んでいた頃の宇都宮駅舎は昭和三十三年にできた四代目で二階が駅デパートになっていた。子供の頃に、矢板から宇都宮に出てくると、必ず宮駅デパートの食堂でソフトクリームを食べた。これは今考えても至福の時だった。駅の大きな文字は平仮名で(うつのみや)と書かれていた。読みにくい駅名だったのだろうか?
 日本で一番初めに駅弁が販売されたのは宇都宮駅だった。握り飯を経木でくるんだ程度のものだったらしい。
 今回対象の東北線五十三次、始点仙台駅は(駅弁の種類が日本一)、終点宇都宮駅は(駅弁歴史の古さが日本一)、ともに日本一の駅弁駅である。


【付記】
※東北の駅百選に九駅が該当していたので、この件についてネットで調べてみた。
 平成十四年に、(鉄道の日)の記念行事の一環として、国土交通省東北運輸局管内にある駅の中から、特徴ある百の駅を選定したとのことだ。他によくある(駅百選)とは違い公募はせず、(各事業者の自薦リストを元に選考委員会が選定決定して百駅を一度に発表した)と記されていた。現在、路線の廃止により四駅が廃駅、震災の津波による被害で三駅が消失、原発事故の影響で立ち入り禁止となった一駅が営業休止になっている。百選は九十二選になっている。