夢経さんの家









     

足利の花火(原版)


足利の花火
 足利の花火大会を初めて見たのは、昭和三十九年の夏だった。市内を流れる渡良瀬川の、通称(河原)と言われる河川敷で行われた。最後に見たのが昭和四十一年なので、四十八年ぶりの花火見物だ。

 日本煙火芸術協会の創立者で、花火師の武藤輝彦氏によると、打上花火は一七五一年(寛延四年)に開発されたという。それ以前の花火は、煙や炎が噴き出す花火であったようだ。花火が開発された年に徳川吉宗が死去している。すると、一七三三年に徳川吉宗が始めたという隅田川の花火は、どんなものだったのだろうか。
 初代の鍵屋弥兵衛が、一七一七年に水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げている。資料によると、この頃の花火の形状は球形ではなく円筒形だったとある。以前に見たテレビ時代劇『水戸黄門』の中で、花火職人が球形の花火を作っていた。時代考証が間違っていたようだ。
 一八一〇年に、八代目『鍵屋』の手代だった清七が、暖簾分けをしてもらい市兵衛と改名、『玉屋』を作った。隅田川に架かった両国橋から上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持ち技を競った。(後に玉屋は火事を出して一代限りで家名断絶となる)今のように真丸く開く花火は明治になってからで、鍵屋十代目の苦心によって作られた。
 足利の花火は、明治三十六年から始められた長い歴史がある。今年は第百回目の記念大会とのことだ。最初の開催年から計算すると、途中で十二回の中止があったことになる。これは、戦争が主な原因なのだろう。
 足利の花火は自治体による開催ではなく、商工会議所が開催しているという特徴がある。繊維業界が好況だった頃には、織物業者が渡良瀬川に船を浮かべて、東京の取引先を接待したこともあったらしい。
 小学生時代の足利花火大会を思い出すとき、忘れられない出来事がある。それは、隣の大家さんが飼っていた、年老いた大きな秋田犬のことである。この茶色い犬は私の住んでいた路地裏のボスで、(ロウ)と呼ばれ、放し飼いになっていた。
 私たち家族が足利に越してきたのは、昭和三十九年四月だった。借家のある路地に入ると、大きな犬がのっそりと近づいてきた。私の匂いを嗅ぎ、顔を見て通り過ぎた。妹たちは怖がっていた。まるで、隣の住人になる私たちを、ゆっくりと見定めているようだった。その後は私も妹たちも、ロウとすっかり仲良くなっていた。とても頭のよい犬で、路地を出て大通りを渡るときは信号待ちをして渡っていた。不審な人が路地に入ってくると威嚇する、最高に強い番犬でもあった。
 ある日、給食のパンを残してきて、あげたが食べない。
「おばちゃん、ロウはなぜ食べないの?」
隣に住む大家さんに聞いた。
「ロウは子供のころからカステラをあげていたから、普通のパンは食べないのよ」
カステラなどめったに食べられない私は、びっくりしたものだった。
 ドーン、ドンドンドーン!
花火大会の夕方、開催を伝達する花火が数発鳴った。
「ロウ!あがってきちゃ駄目だよ」
妹が一生懸命、犬を押し戻そうとしている。ロウは我関せず。ゆっくり居間の畳の上を通り過ぎ、奥の風呂場に入った。私も何とか引っ張り出そうとしたが、座り込んで動かない。
「おばちゃん!ロウが風呂場に入って動かないんだよー」
隣にとんで行った。すると、
「そうそう、話すのを忘れていた。昔は私もあなたの家に住んでいたの。ロウは花火の音が怖くて、子犬の頃から花火の日は風呂場に逃げ込んで出てこないのよ。毎年そうなの、花火が終わると出てくるから、ごめんね」
強いロウにも弱みがあったのだ。

 平成二十六年八月の第一土曜日。今日の花火大会は小学校の同級生が何人か集まり、料亭の屋上で見ることになっている。同級生大津さんの兄が経営している店だ。
 私は青春十八切符を使い、仙台から六時間半をかけて足利に着いた。ローカル線に乗るのが好きなのだ。この切符は普通列車にしか乗れないが、JR全線乗り降り自由の期間限定切符である。一日当たり二千四百円弱で、合計五日分が一つ刷りになっている。(青春)の名称には関係なく誰でも使え、昭和五十七年から販売されている。
 改札を出ると、飯塚くんが迎えに来た。先ずホテル(やや遠い)に行き手荷物を置いた。六月に空き部屋を探したが、駅付近のホテルはとっくに満室になっていたのだ。何とか、マンペイちゃんと二人分の部屋を確保できたのは幸運だった。
 花火大会の開宴は午後七時からで、集合は六時三十分になっている。二人は時間をつぶした。
「つねおに見せたい所があるんだよ」
「どこなのさ」
「ほら、足利を歌った、曲があるだろう」
「わかんねーな」
「ほら、あの歌手、何だっけ、えーとほれ」
「わかんねーな」
 緑町の八雲神社は火事で焼失して仮堂が建っていた。森高千里という歌手が歌った、渡良瀬橋という曲に八雲神社が出てくるらしい。物忘れが始まった仲間が、(あれ、あれ)で通じ合うには、両者に共通の知識がなくてはならない。これさえあれば、
「昨日、あれ見たか?ほらあれだよ」
「見た見た、あれな、良かったよなー」
これで通じる。まるでテレパシーだ。
 後で森高千里の写真を見たが、初対面だった。私より十五歳年下の歌手?のようだ。芸能関係の知識が昭和で止まっている私には、受信できない波形のテレパシーだった。
 八雲神社の社伝によると、八六九年に清和天皇の勅定により、スサノオの命と他の二神を祀ったのが始まりだという。一六九五年、社殿改築の際に奈良・平安時代の古銭が多く出土した。領主の本庄宗資は、この古銭で五枚の神鏡を鋳造させた。その内の一枚が神社に伝わる神鏡とのことだ。足利市の指定文化財になっている。銘菓『古銭最中』は、案外こんなところから命名されたのだろうか?
 車で織姫神社に行く。子供の頃には何度も来ていた。クラスの何人かで、両崖山を越え行道山まで行ったこともある。
「秋になったら、ここから行道山まで行こうぜ」
「いいなー、行こう行こう」
こんな話をしながら街並みを見た。ホテルの高い建物や渡良瀬川の南に開けた街は、子供の頃にはなかった。
「つねお、ほれ、向こうに見えるのが太田の金山だぞ」
指さす方向に山が三つ見える。
「あのうちの、どの山なんだい?」
「そこまでは知らねー」
いつもこんな調子だ。
 幸の湯に行く。サウナのあるスーパー銭湯だ。中学生の時、飯塚くんと銭湯に行ったことを思い出した。松島さん家の近くにあった銭湯で、名前も思い出せないし、どんなペンキ絵が描かれていたかも憶えていない。しかしその時の会話だけは憶えている。銭湯の入り口で不意に聞かれた。
「つねお、はえてきたんか?」
「なんだいそりゃー」
「ちんちんのけだよ」
「まだはえてねーや」
「よかった、おれもまだなんだ」
こんな会話だった。
 最近、スーパー銭湯が好きで、毎週どこかの湯に行く。たいていサウナに三回入り、時間にして二時間は銭湯から出ない。サウナを出た後の、水風呂が快感になってしまったのだ。
 三年前までは、サウナに入ると鼻が乾燥してしまうので、タオルを濡らして顔に巻いていた。まるで中近東の女性のいでたちだ。入るのは一回。水風呂は、心臓まひになりそうなので入らなかった。風呂には、せいぜい二十分もいれば充分だった。飯塚くんはその頃の私と全く同じだった。顔にターバンタオルを巻いてサウナ室に入ってきた。
「水風呂はいいぜー」
「水に入ったら死んじゃうよ、俺心臓が弱いんだから」
「水風呂はともかく、サウナを出たら横になったり椅子に座ったりして、ボーッとしているのが気持ちいいんだぜ」
これを繰り返しているから、長く入っていられるのだ。この日は私のペースで一時間半くらい風呂に付き合ってくれた。

 花火鑑賞の会場に行くと結構たくさんの人がいて、主食や摘みがバイキング形式に並んでいた。私たち仲間用には個室が用意されていた。大津さんに案内されて部屋に入ると大網くんが先に来ていた。その後松島さんと田辺くんと佐竹さんが来た。テーブルは、生ビールを飲みながら話が弾んだ。
 ドーン!
 大きな音が響いた。花火大会が始まったのだ。子供の頃なら、すぐに屋上にとんで行ったのだろう。みんなの話が長くなり、一向に肝心な花火を見に行かない。毎年見ている人たちなので悠長なものだ。
「そろそろ花火を見ようぜ」
みんながそろって屋上に出た。よく見える。
宴会場にいた人たちも、屋上に陣取って歓声を上げていた。十号花火、いわゆる一尺玉が上がる。
「あの大きいのは一発いくらするんだろう」
「一尺玉一個で、十万円位するよ」
そんな会話が聞こえた。
 私が子供の頃は、中橋の近くで花火を上げていた。今は、田中橋の下流で上げているとのことだ。花火を上げるには保安距離というのが決まっていて、十号花火を上げる場合、約半径三百メートルほどの広さが必要となる。十号花火は高さが三百三十メートル位上がり、半径百六十メートル位に火花が広がる。
 空が明らみ一尺玉の大輪が開く。
「すごい、きれいな色!」
「わー、大きい!」
あちこちで歓声が上がる。少し遅れて、
ズドドーン!
 今の花火は昔の花火より色がカラフルだ。輝きも強くて全体に明るい。紅色には炭酸ストロンチウム、緑色には硝酸バリウム、黄色には炭酸カルシュウム、青色には酸化銅、銀色にはアルミニュウム、明るさは、マグネシュウムを調合するらしい。こんなことを考えて花火を見ると野暮になる。
 ドンパチドンパチ、スドドンドーン!
あちこちの夜空が輝きスターマインが始まった。速射連発花火だ。ここは花火師、腕の見せどころ。最近は、パソコン制御で点火する、デジタルスターマインというのもあるらしい。
 花火見物を中断して宴会場に戻り飲み始めると、仙台から車で向かっていたマンペイちゃんが到着した。またまた昔話に花が咲く。
「そろそろ最終花火になるよ」
 みんな屋上に戻った。午後九時が終了の予定なのに花火はまだ続いている。やがて、花火が上がっている方向の地上が明るくなった。河原で仕掛け花火が始まったのだろう。その明るさが増すと同時に、夜空にも明るい花が咲きほこった。次々に閃光が目に飛び込み消えてゆく。光の饗宴は、何度も何度もくりかえされた。空が最高に輝いた後ついに長い沈黙が訪れ、光のあった南の空は周囲の闇に溶け込んだ。花火が終わった後の西空は、誰にも気付かれずに花火を見ていた半月が、空の雲間に輝いて美しかった
 花火大会は終わった。
 私たちは二次会へと向かった。そこには、福田さんと小林さんが加わり、仲間は膨らんでもう一尺玉だ。みんなの話はあちこちに飛んで花が咲き、昔話のスターマインが上がった。                                                             平成二十六年八月