夢経さんの家










      

仙台・松島へ


仙台・松島へ
  東小学校六年一組の、最強メンバー七人が仙台に来ることになった。ことの起こりは今年(平成二十五年)の三月にさかのぼる。クラス会の中で、
「来年三月に定年になるんで、会社を辞めようと思っているんだ。それまでに一度仙台に来ない?」
と、私がいった。
「そうだよ、つねおと二人で案内するよ。ぜひおいでよ」
と、マンペイちゃん。
 その後、行程をいろいろ考え何度か打ち合わせをした。参加者の都合と諸条件の最大公約数から、九月七日・八日の一泊二日の旅が決まった。

    一日目

 七日、十一時四十五分。御一行様足利より到着。マンペイちゃんと出迎えた。佐竹さん・福田さん・大津さん・小林さん・須賀さん・飯塚くんのメンバーである。当夜の宴会には、大網くんも参加するとのことだった。ほとんどが女性。六年一組はいくつになっても、女が強くて元気だ。
 旅の時間割の中で、塩釜港から観光船に乗るまでの行程が忙しかった。旅疲れがあったに違いないが到着と同時に、昼食を予定している海鮮食堂に向かった。飯塚くんと私は食事の注文を済ませ、みんなの荷物をホテルに運んだ。彼は健脚だった。
 寿司定食(結構豪華)が出てくると、
「おいしいね」
「新鮮だね」
「それに安いね」
と、みんなが満足してくれた。
 食休みもない状態で、仙石線の改札口に向かう。地下のホームに駆け降りる。(‥何とか間に合った‥)この電車に乗れれば、あとは順調に流れる予定だ。
 仙石線は、仙台と石巻を結ぶ地方路線である。私が仙台で学生生活を始めた昭和四十七年には、乗車駅が地上にあって、山手線を退職した古い電車が走っていた。当初、チョコレート色の車両だったが、そのうち緑色に変わっていった。JR東日本の中で、東北地区は交流電源で列車を運行している。仙石線は東北地区で、直流を使用している唯一の路線である。だから、直流電源で動く山手線の電車が使われていたのだろう。
 平成十二年から四つの駅が地下駅となり、仙台から多賀城までの間に駅が三つ増えている。現在は先の震災津波で線路が流され、高城町駅から陸前小野駅の間は不通になっている。
 乗車から約三十分、本塩釜駅で降りる。ぶらぶらと、観光船の船着き場がある『マリンゲート』に向かった。途中に津波を記録したモニュメントが建っている。そこには、人の背丈を超える二メートル三十センチの高さに波高が刻まれていた。周囲には、まだまだ災害の爪痕が残っている。
 桟橋で最初の記念撮影をした後、午後二時発の観光船で松島に向かう。乗船客を楽しませてくれるカモメたちも、波に揺れながら待機している。
「これを投げてごらん」
リュックからカッパエビセンを出して渡した。皆が投げると同時にカモメが群れた。
「わー、すごい」
「こわいよー」
「慣れてるんだねー」
手のところまで飛んでくる。船尾は大混乱になった。港を出ると、船が進むにつれてカモメの数は減ってゆき、鳥祭りが終わる。
 以前、カモメを実際につかんだことがある。(とても軽い!)のだ。体に肉が付いていないようだった。カモメ料理は聞いたことがない。私たちの旅が終わってしばらくしたら、観光船から餌を与えることが禁止された。また旅の風情が一つ減ってしまった。
 松島では定番の五大堂に行く。八〇七年、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりらしい。現在の堂は、一六〇四年に伊達政宗が再建したとのことだ。ここに架かる橋は『すかし橋』とよばれている。橋げたの隙間から海が見える。五大堂へ渡るとき(足元を見て気を引き締めるように作った)と記されていた。五大堂をよく観察すると、堂を一周するように干支が彫られている。私の干支は午なので真南に彫られていた。
 健脚三人組の飯塚くん・大津さん・渡沼くんは、福浦島に渡った。残りは土産屋界隈を探索した。
 松島海岸発午後四時三分の仙石線で仙台に戻り、ホテルにチェックイン。宴会が始まるまで入浴でもして、のんびりしてもらう。女性は入浴後、すぐには出られないとのことだった。(化粧の時間が結構必要らしい)
 六時前に迎えに行く。いよいよ天気が崩れだした。小雨の中を国分町まで歩いた。宴会は、六時三十分から二時間半の予約を取っている。場所は『半兵ヱ』という昭和回顧の居酒屋である。昭和でも私たちの年代より少し時代が
古い感じの店だ。日活映画全盛期より以前の雰囲気だ。エノケンの唄も流れてくる。古い映画のポスターや、ミシン、醤油、自転車、オロナミンCなどの懐かしい鉄の看板が、何の法則もなく店中に貼ってある。ブリキのロボットや、ブラウン管テレビ、ここは昭和中期のタイムカプセルだ。大網くんも遅れてやってきて、みんなが揃った。
 昔のコロッケ、お好み焼き、赤ウインナー、揚げパン、摘みはそろった。さあ、アルコールを燃料に全員がワープ!‥‥。
 その後タクシーで、住友生命ビル(エスエスサーティー)へ行く。エレベーターで三十階まであがり夜景を見た。結構有名な若者のデートスポットなのだ。私たちが最年長者であることは間違いなかった。みんな意外に静かに眺めている。(それぞれに、昔のロマンスを思い出しているのだろうか?)
 さらに近くのカラオケで二時間。福田さん・佐竹さん・飯塚くん絶好調!お酒も進む。(酒豪の福田さんも飲みすぎてしまって、次の日朝食が食べられなかったと話していた)
 昭和中期にワープ状態の探検隊は零時近くに、『ANAホリディ・イン仙台』ホテルに軟着陸。私、マンペイちゃん、大網くんは、それぞれの場所へ無事避難着陸。
(今日は一日楽しんでもらえたようだった)何より、何より‥

    二日目

 一日目の松島までは何とか涙をこらえていた空も、夕方からは泣き始めていたが、二日目にはとうとう本泣き状態になった。本日開催されるジャズフェスティバルは、雨中でのイベント開催となった。
 九時にホテルへ迎えに行く。手荷物はホテルに預かってもらい、身軽なスタイルで出かける。ただ、傘が余分だった。仙台には観光地を巡回する『るーぷる仙台』というバスがある。平成十一年から運行されていて、路面電車みたいな形をしている。レトロ調の車両だ。これに乗り込み仙台城址にいった。
 停留所から展望台に向かう途中に、記念写真用のパネルがある。ご当地の有名人、伊達政宗と愛姫が並んでいる。てんでに入れ替わり立ち代わり、顔を出して写真に納まった。後から写真を見たら、みんな年をとりすぎてパネルの衣装に合わなかった。(記念写真なんて、そんなものだ)後日、フォトショップでしわ取りをしてみた。結構見られる。昔は美男美女だったことが実証された。
 土井晩翠の記念碑前で荒城の月を唄う。
 『荒城』とは、どこの城なのだろう?いくつかの説があるらしい。作曲した滝廉太郎の出身地、大分県竹田市の岡城。作詞をした土井晩翠の出身地、宮城県仙台市の青葉城。ほかに三個所、城の候補があるらしい。
 晩翠はかなり昔の人と思っていた。調べてみると、八十年の生涯を閉じたのが昭和二十七年なので、私たちの生まれる一年前まで生きていた人だった。
 護国神社に参拝して『ずんだ団子』を食べた。枝豆を茹でて薄皮を剥いて潰し、砂糖を混ぜたものを『ずんだ』という。鶯色の鮮やかな一品だ。女性陣は団子を食べながら、いつものように話がはずんでいた。
 雨の中、高台から見る仙台の街並みは霞んでいた。遠くに見えるはずの海は見えなかった。震災で車両通行止めになっている北側の参道を下り、博物館の前に出た。二台のタクシーに分かれ、待望の牛タン屋にむかった。
 仙台の牛タン焼きの特徴は、焼肉屋の牛タンと比べると厚切りで、柔らかく焼いてある。戦後、仙台にきた進駐軍が大量に牛肉を食べた。ある焼き鳥屋の店主が、進駐軍の食べなかったタンとテールを有効活用して、牛タン焼きの専門店を開業した。昭和二十三年の発祥になっている。
 その後、私のような仙台への単身赴任者(仙チョン族)が本社などに戻った折、仙台牛タンのセールスマンになっていたようだ。牛タンは高蛋白質の割には脂肪が少ないらしい。そこが、ヘルシー志向の人たちに受け入れられていった。そんな流れに乗って仙台の牛タン焼きが有名になった。
 牛タン専門の利休サンモール店は、休みも手伝ってかなり混雑していた。当然のように、みんなは牛タンを注文した。ついでに、飯塚くんはお決まりのビール。私は牛タンが嫌いなのでホルモン豆腐で昼食完了。待つ時間は長くても食べる時間は早い。食事とはそんなものだ。
 午後はジャズフェスティバルを見物したり、買い物(仙ブラ)をする予定である。私は午後の同行を辞退して、ここで別れなければならなかった。今日の夕方、さくら市(氏家)で義姉の通夜が営まれるのだ。食事が終わると一人駅に急ぎ新幹線に飛び乗った。
 仲間たちに思いを残しながら、列車は雨の中をゆっくりと走り出した。

                     平成二十五年暮れ