夢経さんの家






     

半世紀が過ぎて


半世紀が過ぎて
    
 タイムイズアロー。
「還暦を迎える前に一度集まろう!」
そんな集いだった。
 足利東小学校、昭和四十年度卒業、六年一組のクラス会である。
 私は卒業後四半世紀たった平成元年に、クラスの仲間十二人と担任の先生に再会した。その後さらに二十五年の歳月が流れて半世紀が過ぎた。
 中学は一年生の時に宇都宮に転校したので、足利第二中学校を卒業していない。しかし、二中の同窓会に出席できる特権を与えられている。中学の同窓会は五年に一度開催されていて何度か出席した。しかし、出席者の半分以上は顔と名前がわからない。その点、六年一組のクラス会は私にとって(別格の会)なのだ。
 残念なことに、当時通った小学校はない。学校は取り壊されて、跡地には史跡足利学校が復元されている。我々は(母校難民)なのである。

    二

 平成二十五年三月三十日。仙台発八時五十二分の福島行きに乗る。お得意の在来線での旅だ。福島で乗り換え、その後郡山、黒磯、宇都宮、最後に小山で両毛線に乗り換える。足利着、午後四時二十五分。七時間三十三分の旅が終わる。
 足利駅はいい。昭和八年にできたこの駅はモダンだ。出入り口には風よけみたいなものがついたが、上の時計は特に気にいっている。いつまでも、このまま残っていてほしいものだ。今は駅舎の売店がなくなっていて、昔のように駅で少年サンデーは買えない。
 開宴時間は午後七時になっている。時間があるので宿まで散歩をしてみた。伊勢神社に参拝した後、通り一丁目の交差点に出る。三年間の少年時代を過ごした家は取り払われて、ビジネスホテルが建っていた。両毛線を越えて、昔よく遊んだ山田君のアパートへ行ってみた。建物は残っていたが、さすがに昔の面影はない。アパートは二階建てで、一階には店舗があり二階は住居になっていた。山田くん家のお菓子屋の他に、『めし食べ放題』と看板を出したトンカツ屋が営業していた。宅急便のような運送屋もあったような気がする。近くの水神様に行ってみると、当時に比べて境内が狭くなっていた。踏切の立体化によって面積を削られたのだろうか?
 鑁阿寺に行こうと思った。両毛線を再び渡って、通り一丁目の交差点へ戻る。旧五十号線を少し西に歩いた。回転焼の富士屋と隣の薬屋が、五十年以上前の姿で残っている。薬屋の色あせた看板に、『アラカワ』とある。それこそ、よく見ないと見えない。ここには(時間に忘れられた)空間がある。
 富士屋には何度か入ったことがある。倹約家の妹を騙して連れてゆきホットケーキを食べる。その代金はいつも妹の支払いになっていた。薬屋の脇でおいしいカツパンを売っていた吉沢パン店はなくなっていた。
 鑁阿寺を通り抜けて雪輪町方面に向かった。路地に入ると『足利東映』と書かれた映画館が廃墟になって残っていた。思い出のある映画館である
 子供のころ、妹と妹の友達Hちゃんを連れて東映マンガ祭りを見に行った。フィルムを変える待ち時間になると、子供達がスクリーンの台を駆け回っていた。私たちも上がって遊んだ。私はスクリーンの後ろから軽くHちゃんを押した。すると、
「おしたんだれ!」
と叫び、スクリーンを力まかせに叩いたものだ。何とその衝撃で、スクリーンが五十センチほど破れて穴が開いた。そのとき映画開始のブザーが鳴なった。場内は暗くなりだし、子供たちはみんな一斉に台から降りた
 やがて場内は真っ暗になり、『オオカミ少年ケン』が上映された。上映中ずっとスクリーンの一部が真っ黒になっていた。Hちゃんの破った穴の部分だった。その映画の途中でHちゃんは帰ってしまった。黒くなっている理由を知っていたからだった。小さな胸に不安をいっぱい抱えて帰ったに違いない。(可哀そうなことをしてしまった)私の胸は痛んだ。妹も心配そうに黙り込んでいた。
 通り三丁目の交差点に出てから二丁目寄りに戻りホテルに入った。このホテル、小さくて値段が安い。最上階が大風呂になっていて(私好み)の宿だ。ビジネスホテルによくある、トイレがいっしょになったユニットバスは大嫌いだ。早速、風呂に行った。時間が早いせいか誰も入っていない。のんびりと湯につかり外を見る。結構景色がいい。渡良瀬橋や中橋、男浅間が一望できる。
 渡良瀬橋は昭和九年に竣工した、ワーレントラス橋である。当時の工事費が九万五千円だったらしい。渡良瀬川に架かる現存の永久橋としては、最も古いとされている。中橋は昭和十一年に開通した鉄骨アーチ橋だ。長風呂が好きな私は三十分位風呂を楽しんだ。

    三

 風呂をあがり着替えをして、会場の『月ヶ瀬』に向かった。店は前に来たときのまま古くなっていた。店主の市川君も年をとっていた。(幾つになったのだろうか‥‥あっ!俺と同じじゃないか)
 今日の会場には、飯塚君・赤坂君・渡沼君、高橋君・山田君・岩下君の男性陣、松島さん・福田さん・須加さん・大津さん・佐竹さん・小林さん・関口さんの女性陣、私を含め十四人が集った。北川先生が同席していないことが寂しかった。頃合いを見て、飯塚くんの音頭で乾杯となる。鉄板焼きをほおばりながら、それぞれ好みの酒を飲みながら話がはずんだ。
 平成元年に佐野市の現場に従事した時、六年一組のクラスメートに会いたくなり最初に電話をしたのが赤坂くんだった。それがきっかけで私はここに至っている。彼はお茶目な少年だった。家業である布団屋さんの二階で、小型のレーシングカーを競争させて遊んだ。学校では給食委員をしていて、食事の準備が整うと、
「おあがんなさい」
と彼が言う。今度はみんなが、
「いただきます」
と言って食べ始めたものだ。給食で悪評だったのは脱脂粉乳だ。(飲めない人も何人かいた。私はけして嫌いではなかったし、ココア味の時はおいしいと思っていた。)
 高橋くんと会うのは卒業後始めてだった。当時の遊びに空中独楽があった。彼は達人だった。手のひらで独楽を回すのだ。私は足利に来て初めて、この独楽を体験した。何度も練習したが、いっこうに回せなかった。あるとき、ひもの巻き方が反対だったことに気がついた。いつも回していたベーゴマは、ひもを引くときに回転を与えるため左回りにひもを巻いていた。空中独楽は逆だったのだ。ひもは右回りに巻く。独楽を放り出すときに回すのだ。学校から帰ると毎日練習した。その甲斐があって、やっと手の上で回せるようになった。
 こうなると『独楽鬼』で、がぜん有利になる。この鬼ごっこは、独楽が手の上で回っている間は逃げたり追いかけたりできる。止まったらまたひもを巻いて独楽を手にのせて走る。手にのせられない人は、地面で一回せば十歩動ける。
 二つ目に買った独楽は縁がブリキで覆われていた。鉄でできた心棒の先を削ったり、独楽の下の部分の長さを変えたり、いろいろ試行錯誤を繰り返した。その苦労が実り、手のひらで回す時間の長さでは高橋名人に勝ったこともある。その後、ヨーヨーのように垂直に引き上げて手にのせる技や、ひもに沿わして、独楽を右手から左手に移動させる技も習得した。
 渡沼くんに会うのも卒業後初めてだった。話を聞くと仙台に住んでいるという。私と同じ街にいたのだ。(マンペイちゃん)以外の呼び方をしたことはなかった。蒲鉾などの練り製品を作っていた店の二階に上がりこみ、サッカーゲームやラビットコースターに熱中した。また私と同様に、生き物を飼うのが好きだった。共通な好みの虫はクワガタムシだった。
 サイクリングにもよく出かけた。マンペイちゃんの自転車は外装四段変速で、ハンドルは短くて真直ぐな形(通称鬼ハンドル)をしていた。今日の再会以来、半世紀の時を飛び越えて、また友達付合いが始まった。
 あちこちで昔話をする中、もんじゃ焼やお好み焼きが次々に出てきて、みんなの酒量メーターはさらに上がった。
 岩下くんとは二中の同窓会(平成六年だったと思う)で会っていた。私が転校してきた日、渡良瀬川の土手道を遠くまで連れて行ってくれた。競馬場の先の山は『イワヤマ』といって、
「昔、大きな台風があったとき、川の上流から流されてきた死体が、たくさん引っ掛かった山なんだぞ」
と話してくれた。私はそのとき、『岩山』と覚えてしまったので、ずいぶん後まで、ほんとうの名称は『岩井山』ということを知らないでいた。
 東京オリンピックの開会式を岩下くんの家で見た。その日は彼の誕生会があって、何人か集まってカラーテレビを見ていた。あの頃のカラーテレビはかなりの貴重品だ。そのとき映し出された真っ青な空を、今でも良く覚えている。映画館の総天然色が、小さな箱の中にあった。
 テレビ映画のコンバットが好きで、GIジョーの着せ替え人形なども持っていた。今思えば、『ドラえもん』に出てくるジャイアンみたいな感じだった。最近、古い写真が出てきて圭ちゃんが写っていたが、体が大きくてやっぱりジャイアンのようだった。
 一番仲良く遊んでいたのは山田くんだと思う。家はお菓子屋さんだった。みんなも遊びに行って、お菓子をご馳走になっていたのだろう。店の二階でよくレコードを聴いた。一番よく覚えているのはメジャーな曲ではないが、舟木一夫の『夢のハワイで盆踊り』という曲だ。
 プラモデル作りが好きで戦車や飛行機のほかにも、ゴジラや海底軍艦などを作っていた。また、当時の最新機能を搭載したおもちゃを持っていた。無線操縦で動く『おつかいブル公』と、話した声を再生する『おしゃべり九官鳥』だ。昭和の中期、ラジコンで動かす玩具は何万円もした。たいていの玩具は有線操縦だった。ブル公を操作するのが電波とはすごい。それに、テープレコーダーが放送局にしかない時代に、話し声を録音再生するのだから九官鳥もすごい。一緒に遊ばせてもらったが、とにかくすごい玩具だった。
 私は遊びに出かけるとき、小遣いに十円をもらっていた。山田君は『月給』と称して一ヶ月に五百円の小遣いをもらっていた。私も月給をもらおうと母に交渉したら、一ヶ月分なら三百円だという。その都度もらうほうがよいと思い月給はあきらめた。
 その頃、山田くんは自転車に乗れなかったので、遠くに行くときでも二人は歩いて行った。しかし、自分の子供自転車を持っていて、鍵には十円玉に穴をあけたキーホルダーが付いていたのを覚えている。お金に穴をあけることは、貨幣損傷等取締法で罰せられることを後になって知った。
 子供のころから詩を書いていたのだろうか。あちこちのコンクールで入賞しているとのことだ。昔から芸術家なのだ。今日、私が各駅停車で来たことを話すと、
「よくやるよ!」
「今どき馬鹿じゃない」
そんな返事がほとんどだったが、
「つねお、いい旅をしたな」
と山田くんは言った。(芸術家にはわかるんだ。今でもやっぱりいいやつなんだ)そう思った。
 関口さんは足利学園中学に進学したので、なかなか会えない人だった。授業参観日の思い出がる。
(親に聞いてほしいこと)を発表する学級会があった。この学級会を父兄に見てもらうための参観日だった。会議の中でほとんどの人は、
「もう少し、小遣いがほしい」
「もっと遊んでほしい」
「タバコの煙を吹きかけないでほしい」
「勉強勉強と、うるさく言わないでほしい」
一方的な希望が飛びかった。そんな中でただ一人、関口さんは違っていた。
 彼女はたどたどしく立ち上がり言った。
「お父さんは、仕事中に手を切って、血が出たりしたとき、私が『だいじょうぶ?』と聞くと、『平気だよ』といって、そのまま仕事を続けていました。お父さんは、もっと自分を大切にしてほしいと思います」
教室は静かになり、参観者だった彼女のお父さんは、手を目に当てて涙をぬぐった。私は司会をしていたので、後ろで見ていた親たちの姿をはっきりと覚えている。自分も涙がにじんだ。
 月ヶ瀬だけでは別れが切なく二次会に向かう。いつもの最強メンバーだ。飯塚くん・福田さん・大津さん・小林さん・佐竹さん・須賀さん・山田くん・関口さん・赤坂くん・渡沼くん、みんな唄がうまいし声もいい。私も美しい十代を唄った。この歌は私たちが十歳になったとき、三田明がヒットさせた曲だ。思い出話やらカラオケやらで、それぞれの酒はさらに進み、私のハイボールも進んだ。
 春の夜は素敵だ。ふらふらと中橋を渡りホテルに着くと、正面入り口は施錠されていた。横の小さな入口からそっと部屋に戻り、ベッドに寝ころんだ。時計は午前二時。
 美しい十代から半世紀、これから第二の青春が始まろうとしている。

                        平成二十五年六月