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一 昭和三十九年。人々は、この秋十月に開催される、第十八回オリンピック東京大会を待ち望み、活気に満ちあふれていた。そして、街角には五輪音頭が流れている。そんな春の日の話である。 その日は明け方から小雨が降りだした。 ここ足利にある東小学校の校庭には、朝からの雨でいく筋もの小川が流れていた。東の隅にあるブランコの下は小川が集まって小さな湖になっている。水面には散り始まった桜花の小舟が、何艘も浮かんでいた。 そんな始業式の日、田舎っぽい学童服に身を包んだ、坊ちゃん刈の少年が転校してきた。少年は母親に付添われ、校長室の中で担任の先生が来るのを待っていた。やがて、担任の先生が紹介されると、母親は型どおりの挨拶をすませ気ぜわしく帰って行った。 二言三言の質問を受けた後、少年は先生に促され校長室をでた。前の廊下を右に折れ、少し行った所で二つ折れの階段を上った。教室は上ってすぐの所にあった。入口の上の方には、 『5の1北川クラス』 と、真白なエナメルで書かれた真新しい名札が下げられ、新学期を印象づけていた。 少年はクラスメートに紹介され、転校の挨拶をすませた。こういう挨拶は二度目の事だったので、さして苦にはならなかった。しかし、ざわめきの中に混じって聞こえてくる、耳馴れない言葉とアクセントが、 (遠くへ来てしまった‥‥) という少年の寂しさを、いっそう強くさせていた。 烏山から転校してきて二年間、クラス変えする事なく六年に進み、東小学校を卒業した。 二 卒業記念に私達の学年は、チャイムを寄贈したように憶えている。在校中の授業開始と終了の合図は、『ベル』あるいは『ブザー』を使っていたのだろうか?その記憶がすっかり薄れている。 (私は授業が好きでいつも熱中していたから、時間の変わり目の合図は耳に入らなかったのだ) と、忘れた事は都合よく合理化することにしている。放課後にはいつも音楽といっしょに、 「間もなく下校時刻です。校門を閉めますから校庭で遊んでいる生徒は‥‥」 と、放送が流れてきた事はよく憶えている。 その後、足利第二中学校に一年間在学したので、足利では少年期の三年を過ごしたことになる。 三 私は大学を卒業すると同時に建設会社に入社し、あちこち転勤してあるいた。そんな生活の中で、昭和六十三年秋、下水道事業団発注のポンプ場建設工事のため佐野市に赴任した。 仕事が始まると現場で働く人達の言葉の中に、とても懐かしいアクセントを聞いた。その響きがいつしか、 (一度、足利を尋ねてみたい!) という思いを募らせていった。その後、尋ねる機会を得ないまま仕事に追われ年が明けた。 昭和六十四年の正月を迎え松の内が明けると、昭和天皇が崩御した。昭和の時代に再び足利に行くことなく、新たな年号の平成をむかえた。 元号について、思うところがある。 「日本でしか使わない元号は廃止して、西暦だけを使えばいいじゃないか」 という意見をときどき耳にする。しかし、年号は日本の歴史に受け継がれてきた文化遺産ではないか。 「元号を承認する事は、天皇専制を承認する事だ!」 などと考え、元号に反対するのは実に短絡的な考えである。それは、地方に古くからある町名を、単に呼びやすいからとか便利だからと簡単に変えてしまう、無分別な役所の考え方に似ている。古い町名もまた、その土地の文化遺産なのだ。 私は西洋の合理主義を賛美するのは嫌いだ。不合理と思われるものの中にも、必ず大切なものが存在する。それを大切に残していきたいと思っている。 もともと人間そのものが不合理な生き物なのだから。 四 平成元年になって間もなく(女ばかり続くので恐れていたが)三女が誕生した。長女飛鳥、次女瑞穂、遂に三姉妹となってしまった。姉たち同様、古代日本史的な発想で『弥生』と名付けた。 そんな一月の後半、雨の日が続き工事現場は開店休業となっていた。私はこの期を逃すことなく車で足利へ向かった。 そこには、私の知っている街はなかった。二十余年という歳月は、私が描き続けてきた風景を大きく変えてしまっていた。何よりも東小学校がなかった。周囲の小さな路地は広げられ、いつも渡っていた渡良瀬川の木橋は鉄橋に変わっていた。私の混乱する頭のなかを、 (故郷は遠きにありて思うもの。そして悲しくうたうもの‥‥) 室生犀生の詩がよぎった。あちこちと走り回った末、寂しさを募らせ帰途に着いた。再開発によって、思い出の風景は破壊されていたのだ。 その夜は、いつになく寝つかれなかった。何度も何度もゆっくりと、今日訪ねた場所と過去を重ね合わせていた。街は大きく変わってしまっていたが、 (あの頃一緒だった人達は今‥‥?) 考えると、妙に気持ちが浮つくのを感じた。 五 翌日現場を抜け出して、足利地区の電話帳を受取りにNTTへ急いだ。事務所に帰り着くなりページを開き、思いつく名前を調べた。山田稔、赤坂布団店、大網亮一。この三軒がみつかった。 三十半ばともなると、ほとんどが世帯主になっている。また、故郷に戻っている人もいるようで見つけやすい。何軒か電話をしてみたが、結局この日、本人と話ができたのは、『パーム書房』を始めて間もないという赤坂幹夫君だけだった。 受話器を取り不安な気持ちで名前を告げた。すると、すぐに私を思い出してくれて、忙しい中を長い時間電話に付き合ってくれた。 「みんなに会ってみたいけど、誰らと会えるかな?」 「大津さんがみんなのことを一番良く知っているから、電話してみろよ」 「なるほどね、あとで電話してみるよ」 当時は男と女の子が遊んだりすることはなかった。彼女の家にダイヤルを回す指が、心なしか重かった。呼び出している時間が長く感じられた。私は丸顔の可愛い顔立ちの彼女を、はっきりと憶えている。受話器の彼女に自分の名前をつげた。意外にも、すぐわかったようだった。 (憶えていてくれたんだ!) 私は嬉しさの中に一種のはにかみを感じた。それは遠い冬の日、恋する人と初めて手をつないだときの気持ちに似ていた。 平成の時代になって最初に電話をした異性が、生れたばかりの娘と同じ名前の『弥生さん』だったことが、妙に人の巡り合わせを感じさせた。 六 私は子供の頃から人間の生死の事、運命の事、幽霊の事、そんな事をいつも考えていた。そして今は一種の運命論者だ。 (人間の運命は、何をしようが決っている) との考え方ではなく、 (現在行っている事が、人間の解らない所で先の運命を動かし、必ず自分に影響してくる) といった考え方である。 運命という訪問者は、『前世』までもが複雑に入り組み係わりあって訪れるのだろう。前世は存在し、それを引き継ぐ霊魂もまた存在するのである。人間は死ぬ瞬間に何グラムかの体重が減るという。これが『霊魂』なら、 (霊魂とは、一種の宇宙的エネルギー体なのではないだろうか?) 漠然と考える。 霊根イコール『火の玉』ではないのだが、『火の玉』は存在する。私は小学六年生のとき、足利市家富町の寺でそれを見た。雨が上った春の夜、青白い奇麗な光りがケヤキの梢に消えていった。ほんの十数秒の出来事だった。私は急いで家に帰り祖父にその話をした。すると、 「爺いちゃんも子供の頃よく見たが、火の玉は人に悪さをするわけじゃないんだよ」 と、言われたことを憶えている。 火の玉は霊魂などではなく、燐が燃えるのだという。ある種の発光体を持った昆虫などが集まっている場合もあるという。それなら何故これらのものは、あんなに人間の興味をひくように動くのだろうか?それを遠隔操作する何らかの超自然的な力が、何処かに存在しているのではないだろうか。現在多種の超能力が知られているが、人間の体の中には、長い長い進化の途中で忘れてきた超能力が必ず眠っているのだ。 私はよく酒を呑む。呑み仲間の中には、 「何も憶えてないけど、気がついたら家で寝ていたよ」 などという超能力者が結構多い。案外それは鳩などがもっている、帰巣能力ではないだろうかと思ったりする。 七 その日(何人かの同級生に会える日)は来た。午後から雨になるはずの予報であったが、天気はなんとか崩れずにいた。 午後六時に伊勢町の宿に入った。伊勢神社付近は、岩下君などと遊んだ事が多かったので詳しいのだ。 フロントで記帳を済ませ、四階のシングルルームへ入った。南の窓を開けるとキンカ堂の大きな看板が目につく。いつ頃できたのだろうか?両毛線の踏切りを渡ったあたりなので、当時野菜市場があった付近なのだろう。 昭和四十一年に大きな台風が来きた。夜半からの大雨で、市場から玉ネギやキャベツが大量に流れ出した。付近の冠水した道路では、割烹着姿の小母さんたちが流れ出た野菜を拾っていた。市場の近くには水神様を奉った神社もあったはずだ。永楽町という町名がぼんやりと頭の中に思い浮んだ。山田君、石井君、関口さん、中井さん、少し遠くへ行くと、安田さんも住んでいたはずだ。 八 男は何何くん、女は何何さん、(呼び捨ても多かった)そんなふうに呼んでいた。私は長い間『さん』は、女の人にだけつける言葉だと信じきっていた。 信じるということは恐い事なのだ。小学二年生の時、おさげ髮のKさんという女の子がいた。 ある日先生が彼女を立たせて、 「こういう髪を何というか、知っている人いますか?」 と質問をした。 私はよく知っていたので、真っ先に手を挙げて答えた。 「それは豚のシッポです!」 先生は一瞬ためらったが、すぐに吹出してしまった。生徒たちも大笑いをした。その子は泣きべそをかき、答えた当の本人は、なぜみんなが笑っているのか判らずに唖然としていた。私はかたくなに、そう信じていたのだ。信じ切っているということは恐い事なのだ。小さい時から思想を一つの方向へ教育していく恐ろしさがここにある。 九 作業服を脱ぎ現場の汗を流して、普段着に着替え外に出た。雨模様なので傘を持って行くかどうか少し迷ったが、車に入っている傘はピンク色をしていた。恥ずかしいのでやめにした。 松島さん家の前をすぎ、東小の通りを左に折れて通り一丁目の交差点にでた。 角のスーパーマーケット『山口』は、今風のモダンな店舗になっていた。(アトムシールが欲しくて、よくマーブルチョコを買いにきた)しかし、隣の『斎藤紙屋』はそのままで少しも変わっていなかった。それは夜の暗さも手伝ってか、特に地味な建物に見えた。たいていの物は古くなると、黒色にくすんでいく。 (しかし人間の髪は年を取ると逆に白くなっていく。高齢になり気持ちが黒ずまないように、注意を促しているのではないだろうか?) そんな事を考えた。 いつ頃できたか知らない交差点の地下道をくぐって対角側にでた。私の住んでいた通り一丁目の家は、真っ黒な廃屋となって残っていた。毎日のように、ショーウインドウのカメラを眺めていた、『鈴木写真店』は場所が変わっていた。あの頃カメラを持っている生徒が数人いて、旅行の時など肩に掛けていた。私もカメラが欲しくてたまらなかった。 大通りを歩いていくと、よく買い食いをした『吉沢パン店』の看板が目にはいった。 (ここのカツパンはうまいんだ) 気がつくと私は店の中にいる。カツパンがなかったので、玉子とサラダのパンを買った。これから飲むという矢先にだ。 (単純な人間め!) 自分にあきれた。昔の少年に戻った私は、パンを噛りながら歩いていった。 大通りを左に曲がり『マンペイちゃん』家がある通りに出た。(右に曲がると亀岡さん家の八百屋があった)曲がった道はまっすぐ行くと線路に突き当たる。この路地の形は変わっていない。しかし黒くさびれた町内になっていた。途中『とっちゃん』家があったが、誰も住んでいないようだった。突き当たりを少し左に曲がり、人だけが通れる踏切りを渡ると小さな川が流れているはずだ。 この川は、上流の染色業者が流す染料の関係で、日によって水が紫色だったり赤色だったりしていた。転校してきて始めてこの川をみた時はひどく驚いた。朝顔の花で色水を作って遊んだことがあったが、その色水がどんどん流れてくるのだ。とにかく、こんな川を見るのは始めてだった。川は蓋をされて暗渠になっているらしく、見あたらなかった。 急に時間が気になった。すっかり変わってしまったキンカ堂の辺りをうろうろして、やっと『月ヶ瀬』の暖簾をくぐった。 十 入って名前を告げ終わると同時に、 「つねお久しぶりだなー、飯塚が来てるよ」 市川くんに案内され座敷へあがった。 「オウ!つねお!」 「ウン、‥‥」 会った途端に、これほど変わらない人は少ないと思った。当時より背が大きくなっているほかは、まったく変わらないように見えた。薬の卸問屋に勤めている事や、何年か宇都宮にいた事などを話してくれた。オリンピックで活躍した、エチオピアのアベベを意識してか、『モロッコ』なんて呼ばれていた事を思い出した。実際マラソンも早かった。だんだん(父親そっくりになってきたな)とも思った。 そのうち三三五五、何人か集まってきた。何となく照れくさく、いたたまれなくなってきた。もう先に酔ってしまおう。私は冷や酒を始めた。 十一 北川先生。結婚されて名字が変っておられた。 名字が変わろうと私には、(女だてらに、おっかない先生)だったのである。少しも変わっていない。あの頃と同じだと思った。 先生は国語の研究授業をされていたので、国語には特に熱心だった。文章をすべてセンテンスごとに分け、大事な部分を書き出す。それを形式段落に分け、更に重要なことを書きまとめる。そして、いくつかの大段落にまとめ書き出す。最後にそれらを一つにして、主題あるいは意図を見つけ出す。この作業を行なう専用の用紙が、藁半紙を四段に線引きして作られていた。これに書き込み、まとめていく作業は、かなりの労力がいった。 しかし、何度も学習するうちに、たいていの主題は文章の一番後にあることがわかっていたので、作業は比較的楽になっていた。さらに、何度も繰り返して学習していたので、まとめた意見が正しいかどうか、先生の表情(正しい時はうなずきながら聞かれる癖があった)からわかるようになっていた。この頃には、それらの作業はまったく苦にならなくなっていた。 テストで百点を取ったり良い事をすると、『賞』の文字がスタンプで押されかカードをもらえた。スタンプの色は何回か変わった。みんなは、グリコの点数券を集めるような気持ちで集めていたものだ。そんな話しが出た時、飯塚くんが、 「後になって(賞)と書いたスタンプを文具屋で見つけたが、あの頃知っていればいくらでも作ったのに」 といって、みんなを笑わせた。 私は『書き方』と『図工』は一番苦手だった。十円玉に描かれた葉っぱ模様のような中に、『たいへんよくできました』と書かれたスタンプは、いつも押してもらえなかった。(間違いでも、一回くらい押してくれればと思っていた)文字と絵の下手なのは今でも変らない。職業がら図面はよく書くが、やはりうまくない。 月に一度、早起きの日があった。太陽の登る位置をスケッチにいく日だ。これは一年間続いた。私は、夏至と冬至がそれぞれ一番北と南にくる事は知っていた。(本で読んで知っていても、実際に確かめる事の大切さ)を教えてくれていたのに、それに気がついたのは、かなり後になってからだった。先生は今でいう、猛烈キャリアウーマンだったのである。 十二 須賀さん、小林さん、福田さん、佐竹さん、松島さん、大津さん。六人の女生徒。富口くん、藤倉くん、石井くん、大網くん、そして早くからきていた飯塚くん、先生と私を含め、十三人の話しは弾んでいた。 男の方は飲まない人が二人いたせいか、なんとなく女性の方が活気があった。あの頃も女生徒の方がたくましかったような気がする。小学生は高学年になると、女性の方が体が大きい時期がある。発育の位相のずれなのだろう。松島さんと小林さんは小さい方だったが、今はみんなあまり変わりがないようだ。 須賀さんは中学一年の時も同じ五組だったので、三年間いっしょだった。小学生の時は、髪の横の方に何やら付けていて、ちょうど『はるき悦巳』作の、『じゃりン子チエ』みたいだった気がしてならない。中学生になると、 「まったく、中山くんは‥‥なんだから!」 なんて、いつも言われていた気がする。恐ろしい女の一人なのだ。じゃりン子は綺麗になった。何となく、肩のあたりに主婦のたくましさも感じた。 小林さんは始め名前を思い出せなかった。名前が出てこないのだが、頭の中に『クロ』って言われていた女の子が思い浮かんでいた。足利に住んでいた時に、家で飼っていた犬と同じ名前なのだ。どちらも、可愛らしいクリクリッとした目をしていた。後でカラオケを上手く歌っていた。やはり、みんなたくましくなっている。 福田さんは演技の名人だった。一時期、西武新宿線の下井草に住んでいたと話していた。私も田無から新宿線で目黒の現場に通っていたことがあったので、案外すれちがった事があるかも知れない。子供の頃は『泣きまね』が上手くて、私はよくだまされていたものだった。(吉田カンちゃんはだまされなかった)きっと、おとなになってから、だまされた男がいたにちがいないのだ。それが案外、今の夫なのかも知れない。 佐竹さんは変な子供だった。よく二組の先生(名前を思い出せないのだが、ニキビの跡の目立つオカマみたいな先生)の家で文字焼きをしていた、プッツン少女だ。『アリ』のことを『アリンド』と呼ぶ変な少女だったのだ。そして、それを虫眼鏡で焼いたりしていた。私もやってみたが、これが意外におもしろい。アリは動きが早いので、追いかけるのに結構根気がいるのだ。あいかわらず、あっけらかんとして楽しい人だ。 松島さんは可愛い少女だった。当時何週間か交代で給食当番が回ってくる。当番が終わると、各自家に割烹着を持ち帰って洗濯をしてくることになっていた。彼女の家はクリーニング屋さんをしていたので、いつも糊のついた真白いのを持ってくる。みんな羨ましい気持ちでいた。随分背が大きくなっていた。 大津さんはみんなの憬れで、おとなに見えたものだった。 私は結構いっしょだった思い出がある。各クラスに整備委員というのが二人ずついた。そして六年生のなかから、それらをまとめる整備委員長が選ばれていた。彼女はそれもやっていた。(その他いろいろやっていた)その時私が、副委員長だった記憶がある。何となく女性優位の場面だった。 東小学校に在籍した期間の中で、一番不幸だった時間の中でもいっしょだった。高学年になると、週に一回のクラブ活動が六時間目にあった。私は本でも読んでいるのが一番良いと思い、読書クラブに入った。その時一組からは、彼女と大橋さんがいっしょだった。 クラブが始まり、いざそこに行ってみると、何と!部員が十何人かいたのだが、みんな女ではないか。(私にとっては大変なこと)になってしまったのだ。翌日、先生に辞めたいとの申入れをしたのだが、聞き入れてもらえなかった。 それ以来、毎週不幸の時間を迎えることになったのだ。クラブが早く終わった男達がひやかしにきた。その時彼女は読書クラブの部長だった。 男と女がいっしょにいると、ひやかされる時代だった。好きな異性をわざとからかったり、無関心を装ったりしていた時代だった。もっと自然に男と女が友達になれる時代は、次ぎの世代を待たなければならなかった。 富口くんは一番背が高いスポーツ万能選手だった。今も大きい。富口くんら四〜五人と渡瀬川の下流の方(詳しい場所は思い出せない)へ、ヒヨコを買いにいった。学校の前でよく売っていた、黄色いあれだ。最近は、青色や赤色のヒヨコも売っているのだから、あきれたものだ。色を付けられたヒヨコは、たまったものではない。 冬の砂利道を自転車でかなり走った。そこの農園に行けばヒヨコが一羽二円で買えた。学校の前では一羽十円で餌も売っていた。当時玉子は十円近くしていたのに、なぜヒヨコになると安くなるのか不思議だった。もっともそれはオスだけで、メスは百円以上していた。オスは食べられる為だけに、生れてきたのだ。私は絶対に鶏のオスだけには生れたくないと思った。 私は十円で五羽のヒヨコを買った。ヒヨコを積んで家に帰ると、砂利道の振動によるショックと寒さで、四羽は立ち上がれなくなっていた。いそいで段ボールの箱に電球を入れて飼育を始めた。その日は夜遅くまで妹と眺めていた。 次ぎの朝、二羽が死んでいた。寒さの為だと思い豆炭あんかをいれた。二日ほどして、また一羽が死んだ。その後残りの二羽は、翼に白い羽毛が見えてきた。しかし、一週間ほどたった後、残りの二羽も死んだ。豆炭が熱すぎたのだ。羽毛が熱ですこし黒くなっていた。 「お兄ちゃん、ヒヨコかわいそうだね」 妹が涙ぐんでいた。他の人が買ったヒヨコもほとんど育たなかった。もう二度と生き物は飼わないぞ。飼うものか。そう固く心に誓った。 その後、トカゲや雷魚や蝙や、あいかわらずいろいろ飼っていた。富口くんの玄関の水槽にはクチボソ(モロコ)が飼われていた。(どうも魚取りが禁止されている大日様で取ったようだった) 藤倉くんは魚取りの先生だ。名前に博士の『博』の字がついている。魚博士だったのだ。大きな石を川の中の石にぶつける、『石カッチン』と呼ばれる漁法が得意だった。石をぶつけたときの衝撃で、魚が脳しんとうを起こして浮かびあがってくる。これを、すばやく捕まえるのだ。 渡良瀬川はかなり汚くなっていたが、ウグイ、フナ、カマツカ、シマドジョウ、その他に今では珍しいギギも棲んでいた。石の下にそっと手を入れて魚を取る時に感じる微妙な感触も教わった。ギギを強くつかみすぎて、ムナビレの棘で手を刺してしまい出血したこともある。渡良瀬川は絶好の遊び場だった。川原では、『桜石』もかなり拾い集めた。 石井くんは『イジメられっ子』のところがあった。私とは何度か喧嘩もした。彼はめちゃくちゃ髪の毛を引っ張る戦法を得意としていた。その時の後遺症がいまごろ出て、髪が薄くなってきているのかも知れないのだ。 ある日の放課後、石井くんのカバンを手に持ったまま、学校の東側の塀から飛び降りた。私は着地が悪く塀の下のドブ川に落ちた。その時運悪く彼のカバンは、私と運命を共にしていた。ドブ川からカバンを引き上げて私の家に帰った。二人はドブで汚れた教科書を水洗いした。そして、私は母親にひどく怒られながら、アイロンをかけて乾かしてもらったことがあった。気の毒なことをしてしまった。今日の石井くんは一番元気だ。もともと、男のくせに髪にヘアピンをした陽気な少年だったのだ。 大網くんは、いわゆる『坊っちゃん』だった。石井くんといっしょに、学園中学へ行ってしまったので一番長い間、会うことのできなかった人だ。今日のいでたちはロック歌手のようだった。座敷に上がるなり先生のところへ行き挨拶をしていた。挨拶の最後に 「母もよろしく申していました」 と言った。このての挨拶がきちんとできる人は少ないものだ。彼は子供の頃も礼儀正しいところがあった。変わっていなかった。 私は『乱歩』の明智小五郎を好んで読んでいたが、彼は『ドイル』のシャーロックホームズを愛読していた。そんな時、親指を口にもっていく癖があった事をはっきりと憶えている。あまえん坊だったのだろう。 渡良瀬川を越えて(渡良瀬川の南側は別の町のような気がしていた)よく遊びにいった。彼の家には卓球台があって、何度も対戦したがほとんど勝てなかった。 十三 いつの間にか時間は過ぎ、みんなが入れ代り立ち変わり小さな集団を作り、それぞれの思い出話しに酔っていた。小雨の中を二次会にいく頃には、みんな四半世期ほどタイムスリップし、昭和三十九年と四十年の時空を彷徨していた。飯塚くんと私のタイムトラベラーは三次会までいった。今や二人は完全に、酒を飲む小学生に変身していた。 やっとの事で宿に戻り、着替もせずにベッドに倒れこんだ。時計はすでに午前二時をまわっていた。ゆっくりと深呼吸をして目を閉じると、今日のタイムトラベルに招待してくれた大津さんが思い浮かんだ。そして何故か、子供だった彼女が胸に名札をつけるのに使っていた、止金の部分がプラスチック製の綺麗な安全ピンを思い出した。 外は夜半から降り出した小雨が、いつか大粒の雨に変わっていた。四半世期が過ぎて、あの雨の日に転校してきた少年も、雨音に過去を追いかける年齢になったようだ‥‥。 平成元年三月 |
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